第8話 パパの成長記録
朝の光が差し込む病室。
莉緒は、ベッドの上でそっとお腹を撫でた。
張りは落ち着いているけれど、まだ油断はできない。
五つの命が、静かにその小さな鼓動を刻んでいる。
カーテンの隙間から青空が見える。
「今日、瑛士……二回目のパパママ教室だね」
声に出すと、ぽこ、と小さな胎動が返ってきた。
「ふふっ、ちゃんと応援してるのね。パパ頑張れー」
――そのころ、地域センターの前。
スーツ姿の男性が一人、看板の前で立ち尽くしていた。
「……ここか」
篠崎瑛士。
大企業の社長、そしてもうすぐ五つ子の父親。
ただし、育児経験はゼロ。
「パパママ教室」など、人生で最も縁遠い場所だった。
だが今の彼は、そんなことを言っていられない。
莉緒のため、五人の子のため。
犬のような忠誠心を胸に、彼は今日も通ってきた。
「篠崎さん、また来てくれたんですね!」
明るい声が響く。
講師の隣で手を振るのは、前回知り合った日向悠真だ。
第一子を迎える新米パパ。
朗らかで社交的な性格が、瑛士のような不器用な男を自然と引き寄せていた。
「前回よりリラックスしてる感じですね」
「……緊張はしていない。ただ、慣れない」
「ですよね。でも大丈夫、今回は僕もいます!」
「……心強いな」
悠真の明るい笑顔に、瑛士は小さく頷いた。
***
まず最初のカリキュラムは「妊婦体験スーツ」。
体に重りを装着し、臨月の妊婦の体を体感するというものだ。
係のスタッフが、瑛士の腰と腹にパーツを装着していく。
「……重いな」
「でしょ? 前屈みになるとさらに大変なんですよ」
悠真が笑いながら言う。
「こんな状態で、莉緒は毎日を過ごしているのか……」
「しかも、五人分ですよね?」
「……そうだ。君の何倍も大変だ」
「でも、篠崎さんもこうして参加してる。立派ですよ」
悠真の言葉に、瑛士は少し照れたように視線を逸らした。
「俺は……彼女を支えるために、できることを学びたいだけだ」
短い一言に、確かな決意がこもっていた。
***
次は「沐浴体験」。
お湯を張ったベビーバスに、人形を入れて洗う練習だ。
講師が説明を終えると、瑛士は恐る恐る手を伸ばした。
「赤ん坊は首がすわっていない……ここを支えるんだったな」
「そうそう! そのまま背中をゆっくり流して――あっ」
人形がつるりと滑り、思わず瑛士が手を離しかける。
「うわっ!」
「危ない! 首! 首ー!」
悠真が慌てて支える。
二人してバタバタと大騒ぎになり、講師が笑いながら近づいてきた。
「お父さん方、赤ちゃんがびっくりしてますよ〜」
「……すまん。手加減がまだ分からん」
「その不器用さが、むしろ“パパっぽい”ですけどね」
悠真が笑い、瑛士も少しだけ口元を緩めた。
***
最後の体験は「育児シミュレーション」。
AI人形を使って、授乳や寝かしつけを練習する。
泣き声が響くたび、瑛士は右往左往。
「どうすれば泣き止むんだ……?」
「お尻トントンです! あと、背中をさすって!」
「……こうか?」
「ちょ、強いです! 赤ちゃん壊れます!」
「む、難しい……」
「でも、愛情は伝わってますよ」
「……なら、いい」
瑛士の表情が少しずつ柔らかくなる。
社長という仮面の奥に隠れていた“父親の顔”が、静かに覗いた。
***
講習が終わると、悠真が笑顔で声をかけた。
「篠崎さん、せっかくだからLINE交換しません? 育児の情報共有とかできますし!」
「……LINE?」
瑛士は瞬きをした。
「俺は……スマホを持っていない」
「えええ!? 令和ですよ!?」
「仕事は全部、秘書に任せていてな。だが……莉緒と連絡を取ってみたい」
悠真はにっこり笑って言った。
「じゃあ、今から買いに行きましょう。僕、詳しいです!」
***
そして二人はその足で家電量販店へ。
店員に勧められるまま、最新機種を手に取る瑛士。
「これが……スマホか」
「そうです、それです。こっちが電源ボタンですよ」
「……押す?」
「タッチです!」
「なるほど……」
設定画面でつまづき、LINEの登録で迷い、カメラのシャッター音に驚く。
悠真が笑いをこらえながらサポートする姿は、まるで兄貴分だった。
「篠崎さん、初LINEは奥さんに送りましょう」
「……どう送ればいい?」
「そのままの言葉でいいんです」
しばらく考え、瑛士はゆっくり文字を打つ。
『今日、妊婦体験と沐浴をした。
想像以上に大変だった。
君はすごい。俺も、少しは支えられるように頑張る。』
送信ボタンを押す指が、微かに震えていた。
***
夜。
莉緒の病室。
枕元でスマホが震える。
画面を開いた瞬間、涙が溢れた。
「瑛士……」
短い言葉の中に、彼の不器用な優しさが詰まっている。
「……頑張ってるんだね」
莉緒は笑いながら返信する。
『パパ、ありがとう。
無理しすぎないでね。五人みんな、応援してるよ🐾』
翌日、面会時間。
瑛士は、少し誇らしげな顔で病室に現れた。
「莉緒。昨日の教室、全部やり切ったぞ」
「ほんと? どうだった?」
「……沐浴は人形を落としかけた。一回成功したんだけどな。まだ慣れてないみたいだ。妊婦スーツは重すぎて腰が痛い。
育児シミュレーションでは泣き止ませるのに失敗した」
「ふふ、失敗ばっかりだね」
「だが、少しだけ分かった。君が、どれほど頑張っているか」
莉緒の目に涙が滲む。
「瑛士……ありがとう」
「俺は、父親になる。どんな形でも、君と子どもたちを支える」
その言葉に、莉緒は微笑み、お腹を撫でた。
カーテン越しの光が少し柔らかくなっている。
ふと、窓の外に目を向けた莉緒が呟く。
「……もう秋なんだね」
病院の庭の木々が、ほんのりと紅葉を帯びていた。
その言葉に、瑛士は窓の外を見やり、優しく頷いた。
「季節が変わっても、俺たちは一緒だ」
「うん……そうだね」
手と手が重なり、静かなぬくもりが流れ込む。
五つの命を抱えながら、二人の心は確かに一つに結ばれていた。
【次回第9話】
テーマは「命の実感」と「家族の絆の深化」。
五つ子の心音を通して、二人が“親”としての覚悟を確かめ合う章になります。
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