第7話 支える覚悟

 病室の窓から差し込む朝の光が、真っ白なシーツを柔らかく照らしていた。

 微かな消毒液の匂いと、機械の規則的な電子音。

 ここ数日、莉緒は病院の時間に身体を委ねるようにして過ごしていた。


 ――絶対安静。

 それが、医師に言い渡された言葉。


 五つの小さな命を守るために、少しの負担も避けなければならなかった。

 動くことも、笑うことも、食べることさえ慎重に。

 あの夜、強いお腹の張りで急いで産婦人科に駆け込んで以来、彼女はひたすら「守る」だけの時間を過ごしている。


 ドアの向こうで、軽くノックの音が響く。

「――入るぞ」

 静かに扉が開く。


 篠崎瑛士が、今日もスーツ姿で現れた。

 ネクタイを少し緩め、手には花束と紙袋。

 彼の表情は相変わらず冷静で、けれどその目には疲れと、優しい決意が混ざっていた。


「今日も、来てくれたんだ」

 莉緒が微笑むと、瑛士は小さく息を吐いた。

「当たり前だろ。お前と子どもたちがここにいるのに、俺が行かない理由はない」

「……毎日ありがとう。でも、仕事もあるでしょ?」

「仕事は副業。本業は“旦那業”と“父親準備”だ」


 冗談のように言っても、目は真剣そのものだった。

 莉緒は思わず笑ってしまう。

 この数日で、彼がどれだけ変わったかを感じていた。


 冷徹な社長――そう呼ばれ続けてきた彼が、今はベッドの横でクッションの位置を直し、

 水の入ったコップの温度を確かめ、毛布の端を丁寧に整える。


「……ねぇ、ほんとに、瑛士なの?」

「本人だ。社長業から一時的に転職した」

「職種は?」

「忠犬」

「……ふふっ」


 莉緒が笑うと、瑛士もつられて笑う。

 けれどその笑みは、どこか切なく、愛おしい。


 彼はベッドのそばの椅子に腰を下ろし、莉緒の手を包み込んだ。

 その手は少し冷たくて、でも確かに力強かった。


「どうだ、体調は」

「だいぶ落ち着いたよ。薬も効いてるみたい」

「そうか……よかった」


 短い沈黙。

 それを破るように、瑛士がぽつりと口を開いた。


「――パパママ教室、行ってきた」


「えっ、瑛士が? 一人で?」

「……ああ。休みを取って」


 莉緒は思わず目を瞬いた。

 普段なら仕事を優先するはずの彼が、わざわざ自ら行くなんて想像もしていなかった。


「すごいね……どんなこと、したの?」

「りん浴体験と、おむつ替え」


「……!」

「最初、赤ちゃんの人形を抱いた瞬間、首がぐらっと落ちた。講師の人に“お父さん、それは即アウトです”って言われた」

 莉緒は思わず吹き出した。

「ぷっ……!」

「真面目にやったんだぞ。慎重に抱え直したのに、今度はお湯の温度が高すぎて“お父さん、それはラーメンです”って言われた」

「瑛士、想像つく……」

「おむつ替えも散々だった。マジックテープを逆につけて、しかもお尻拭きが足元に落ちてな」

「え、それ絶対笑われたでしょ」

「……笑われた」

「ふふっ」


 莉緒はお腹を押さえながら笑った。

 笑ってはいけないのに、笑わずにはいられなかった。

 病室の空気が一瞬にして柔らかくなる。


「でも、すごいよ。瑛士がそうやって学ぼうとしてくれてるのが、嬉しい」

 莉緒がそう言うと、瑛士は照れたように目を逸らした。

「……お前と子どもたちを守るのに、知らないままじゃ怖いからな」

「うん……ありがとう」


 莉緒は彼の手をぎゅっと握り返した。


 その指の温度が、胸の奥にじんわりと染みていく。

 安心と、嬉しさと、そして――涙。


「ねぇ、瑛士」

「ん?」

「……ほんとは、怖かったの」

「何が?」

「切迫早産って言われて、何もできなくて。五つも命がいるのに、ただ寝てるだけで、本当に守れてるのか分からなくて」


 声が震えた。

 その瞬間、瑛士の表情が優しく崩れる。


「莉緒、お前が寝てくれてるだけで十分だ」

「でも……」

「大丈夫。君が身体を休めてる間、五人の命はちゃんと育ってる。それだけで、俺なんかより何倍も強いことをしてる」


 彼は手を伸ばし、莉緒の頬をそっと撫でた。

 大きな指先が、涙を拭うように。


「だから、俺が支える。お前の代わりに、動いて、学んで、準備する。全部、俺がやる」

「……そんなの、瑛士が大変だよ」

「俺が好きでやってる。お前が笑ってくれたら、それでいい」


 莉緒の目から、涙がぽろりと落ちた。

 この人の愛は、いつもまっすぐで、不器用で、優しい。

 冷徹な社長――そう呼ばれていた面影は、もうどこにもなかった。


 代わりにそこにいるのは、

 彼女と子どもたちのために必死で生きる、犬のように誠実な男。


 その夜、彼は病室に残って、眠る莉緒の髪を何度も撫でていた。

 ベッドの横の床に座り、机にもたれ、彼女の寝息に合わせて呼吸を整える。


「……俺、ちゃんと父親になれるかな」

 小さく呟いた声は、誰にも届かない。

 ただ、莉緒の指先を握る手に、誓いだけがこもっていた。


 ――この手を離さない。

 どんな未来が待っていようと。


 数日後。


 医師の許可で、面会時間が少しだけ長くなった。

 その日の瑛士は、いつもより明るい顔をして現れた。


「莉緒、聞いてくれ。昨日、沐浴、成功した」

「えっ、本当に?」

「ああ。人形だけどな。講師に“昨日の人が信じられないほど上手です”って言われた」

「ふふっ、それはすごい進歩だね」

「まあ、途中でタオルを落として人形がずぶ濡れになったけど」

「瑛士……!」

「でも、手つきが柔らかくなったって言われた。お前の髪を乾かす練習をしたおかげかも」


 莉緒は笑いながら、そっとお腹を撫でた。

「みんなも、パパの成長楽しみにしてるよ」

「……プレッシャーがすごい」


 けれど、その顔はどこか誇らしげだった。


 夜、瑛士は病室を出る前に、莉緒の手を再び握った。

「おやすみ。また明日来る」

「ねぇ、瑛士」

「ん?」

「ありがとう。怖いけど、もう大丈夫。瑛士がそばにいてくれるから」


 彼はその言葉に、ゆっくりと微笑んだ。

「俺の方こそ、ありがとう。お前がいるから、頑張れる」


 そして――静かに額へキスを落とす。

 短いけれど、確かな約束のようなキスだった。


 病室の灯が落ちる頃、莉緒は静かに目を閉じる。

 心の奥で、五つの命が小さく動くのを感じながら。

 そして思った。


 ――この人となら、どんな未来もきっと笑って迎えられる。


 夜の病院に、ふたりの小さな息づかいが、穏やかに響いていた。



【次回第8話】

「パパママ教室」2回目の参加。

前回より少し慣れた様子で、他のパパたちとも自然に会話できるようになってきた。

「でも、まだ不器用さは抜けない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る