第9章 封印を解く夜
夜のフィレンツェは、息をひそめていた。
風が止まり、鐘も鳴らない。
街全体が次の一音を待っているようだった。
わたし――ピッコロは、サン・マルコ修道院の屋根の上にいた。
瓦は冷たく、星の光がまるで息のように震えている。
下の回廊には、キアーラとロレンツォの影。
二人の足音が、古い石の床に吸い込まれていく。
扉は開かれていた。
誰もいないのに、蝋燭がすでに灯っている。
まるで誰かが“来るのを知っていた”かのように。
キアーラが封蝋の手紙を開く。
古い青い蝋が割れ、中から薄い紙が現れた。
そこには滲んだインクで、こう書かれていた。
《Quando il colore sarà restituito, anche il tempo si piegherà.》
――「色が返されるとき、時間もまた折りたたまれる。」
「やっぱり……ここが、最後の場所。」
ロレンツォが頷く。
「mutatioの中心、六つの玉が描く円の中央。」
床のモザイクが月明かりに照らされる。
六つの赤い石、そして空白の一点。
そこだけが欠け、
まるで“青”が抜け落ちたようだった。
キアーラが小瓶を取り出す。
中には、これまでの旅で集めた青の粉。
「この色を、返すのね。」
「待て。」
ロレンツォが腕を伸ばす。
「もし封印なら、開くことで何かを失うかもしれない。」
キアーラは微笑んだ。
「失わなきゃ、取り戻せないこともあるわ。」
蓋が開かれる。
粉が月光に溶け、
ゆっくりと床の欠けた部分に落ちていく。
青が石の目地に吸い込まれると同時に、
空気が震えた。
――鐘が鳴る。
一度。
二度。
三度。
音が天井の梁を震わせ、
蝋燭の炎がゆらめく。
四度。
五度。
六度。
六つの音が重なった瞬間、
床のモザイクが光を放った。
赤が青を包み、白が境界を溶かす。
色が混ざり、円が閉じる。
光の中から、低い声が聞こえた。
それは石の奥から響く、
長い年月を抱えた声だった。
《Mutatio completa est. Il debito è restituito.`》
――「「変化は終わり、時は赦された。」
修道院全体が震える。
壁のフレスコ画が淡く光り、
聖人たちの影が動いた。
まるで祈りながら頷いているようだった。
ロレンツォが息を呑む。
「……見ろ。」
モザイクの中央に、小さなメダイヨンが現れた。
六つの玉。
だが今度は、すべてが同じ色。
青でも赤でもなく、
光そのもののような白。
キアーラが膝をつき、指でそっと触れる。
「これが……本当の“palle”。
メディチが残した最後の祈り……。」
ロレンツォが隣に腰を下ろし、
その光を見つめながら呟いた。
「富でも力でもない。
失われた色を返すこと、それが彼らの約束だったんだ。」
天井のフレスコ画がわずかに色を変える。
剥落していた空の部分に、
かすかな青が戻っていく。
夜の空のように静かで、温かい青。
そして――
鐘が鳴った。
だが、今度は七度。
七つ目の鐘。
その音は風を呼び、
蝋燭の炎をひとつ消した。
煙が立ち上り、
夜がゆっくりと明けていく。
青は返された。
時間は折りたたまれ、
街が再び夢から覚める。
フィレンツェは、
祈りのような静けさの中で呼吸を始めた。
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