第8章 紙魚とパンくずの暗号
夜のフィレンツェは、呼吸を潜めていた。
風が止まり、屋根の上の塵さえも眠る。
だが、ひとつだけ眠らないものがある。
――本。
古書は夜になると、わずかに動く。
湿気を吸い、紙が鳴る。
その微かな音を聴き取れるのは、人ではなく、わたしたちスズメだけだ。
わたし――ピッコロは、サント・スピリト地区の古い図書館の屋根にいた。
月明かりが天窓を抜け、机の上の写本を照らしている。
虫食い穴が星座のように並び、ページの端には時の粉が積もっていた。
下ではキアーラとロレンツォがページをめくっている。
「これ……ただの虫食いじゃないわ。」
キアーラが指を止める。
「ほら、間隔が一定。文字の上じゃなく、余白だけにある。」
ロレンツォが懐中電灯を傾け、光を滑らせる。
「……六つの点。いや、七つ?」
「いいえ、六つ。見て。」
キアーラはペンで線を引く。
穴がつながり、星の形が浮かぶ。
六つの点――六つの玉の配置だった。
「まるで地図ね。」
「この配置、見覚えがある。カルツァイオーリ通りの屋根の形だ。」
「カルツァイオーリ通り?」
「そう。昔はパン屋が多かった。“パンの道”って呼ばれてたらしい。」
パンの道。
その響きに、わたしの羽がわずかに動いた。
朝の街角、焼きたての香りが風に乗る。
パン屑が散るように、
光の粒が石畳の上で踊っていた。
鳩がついばみ、風が転がし、
やがてそれが集まる場所があった。
教会前の噴水――六つの石の円。
◆
翌朝。
キアーラたちは虫食いの地図を手に、街を歩いていた。
パンの道、古い煙突、石畳のくぼみ。
それぞれが点となり、重なり、
地図と現実が少しずつ一致していく。
「一、二、三、四、五まではある。」
キアーラが指を折る。
「でも、六つ目がない。」
「この辺りだと思うけどな。」
ロレンツォが空を見上げる。
太陽が傾き、鐘楼の影がゆっくりと動く。
「……影。」
キアーラが呟く。
「昼の鐘が鳴るころ、影が重なる。
その瞬間だけ、六つ目の点が現れるのかも。」
わたしは屋根の上から見守る。
鐘が鳴る。
一度、二度、三度――
五度目の音が街に落ち、
六度目の鐘で、煙突の影が壁に触れた。
そこに、小さな穴。
影の中でだけ見える“第六の点”。
「これよ……!」
キアーラの声が震える。
「六つ目の玉!」
ロレンツォがそっと触れる。
指先に灰がついた。
「焼け跡だ……。昔、ここで火が出たんだ。」
「つまり、六つ目の玉は“失われた場所”にあった。」
キアーラの言葉に風が応えるように吹き、
灰が舞い上がった。
その灰が光を受け、
銀色の粉のように空を流れていく。
「ピッコロ、見て。」
キアーラが空を指さす。
「灰が……星みたい。」
灰の粒が風に乗り、
六つの点を描き始めた。
それは夜空の星図のようで、
フィレンツェの街全体を形づくっていた。
わたしは鳴いた。
一度、二度、三度、四度、五度、六度。
鐘の音と重なり、街が共鳴する。
石が鳴り、屋根が息をし、
街全体がまるで記憶を語るようだった。
「この街が……覚えているのね。」
キアーラの声が震える。
「六つの玉は装飾なんかじゃない。
街そのものの構造なのよ。」
ロレンツォが頷いた。
「そして“第七の点”がある。」
「え?」
「虫食いは六つじゃなかった。七つだった。
ひとつは消えていたんだ。」
キアーラは空を見上げた。
「……中心。星の真ん中。」
ロレンツォが続ける。
「そこが“色を返す最後の場所”かもしれない。」
風が吹く。
パンくずが一斉に舞い上がり、
六つの点が空で光を結ぶ。
その中央に、かすかな青が戻っていた。
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