第24話 最高峰の片鱗
彼は、缶の蓋を閉じた後も、しばらくそのワックス缶を握りしめていた。甘く優雅な香りが、まだ手に微かに残っている。
この究極のワックスに辿り着いた興奮が彼の視野を狭くしていた。しかし、その高揚感からしばらくして、同時に買った下地剤の存在を思い出した。
「あっ、そうだった……」
彼は苦笑いを浮かべながら、ワックス缶の隣に置かれていた、専用の下地剤のボトルを手に取る。
小ぶりなボトルは、ワックスと同じデザインで統一され、とても落ち着いた見た目をしている。彼は軽く振ってみて、パシャパシャという音から、それが粘度の低い液体であることを知る。慎重に数滴手のひらに出し、色と匂いを確認してみると、乳白色で着臭はされていないようで、若干の匂いはあるものの特に嫌な臭いもしない。
「こっちは匂いしないのか……」
少なからず期待をしていた彼は少し残念そうに呟く。
ワックスの開封に没頭していたら、すでに昼前になっていた。
興奮冷めやらぬまま、彼はいつも通り簡単に昼食を済ませると、ワックス達とガレージへと向かった。
彼はガレージに着くと、すでに並べられている高耐久ワックスの隣に北欧ワックスと下地剤を置くと言いようのない満足感に包まれた。少し立ち止まってしまった彼だが、その余韻を胸にいつものルーティーンで洗車を開始した。
数十分後……いつものルーティーンより少し時間のかかった洗車を終えガレージへと車を入れた。
本来は年明けの時間のとれる連休にしっかり準備をしワックスを使う予定のはずだったのだが、案の定というか当然というべきか、試さずにはいられなかった。それを自覚している彼は、今日の洗車の時にボンネットだけワックスをしっかりと落とし下準備を整え、一番目立つ場所で堪能することにしたのだ。
最高峰のワックスの性能を引き出すには下地が不可欠だと、改めて強く意識する。興奮は収まり、彼の顔はすでに最高峰のワックスの仕上がりに期待で満ちて緩んでいた。
彼は、まずこの専用下地剤を専用のアプリケーターに取り、丁寧にボンネット全体に塗り広げた。その作業は、かつて行っていたワックス塗布の予行演習のようだった。下地剤は、塗り跡を残すことなく、スムーズに拭き取られ、ボンネットの塗装面はワックスを待つ、最高のコンディションへと整った。
そして、いよいよ本命の出番だ。彼は再び北欧ワックスの蓋を開け、指先にワックスを取り、手全体になじませしっかり溶かしていきボンネットへと塗り広げていく。
施工は、高耐久ワックスより少し溶かすのに時間がかかり、塗り広げる時も重さを少し感じていた。しかし数回繰り返すうちに気にならなくなった。この北欧ワックスの質感や香り、そして何よりも最高峰と言っていいワックスを施工しているという満足感が彼を満たしていた。
ボンネットを塗り終え、乾燥待ちの間に、彼は実験を試みた。ボンネットに影響が出ないよう注意しながら、隣接するフェンダーに、簡易的なリセットをしただけの状態でワックスを塗り込んでみる。
すると、ボンネットの下地剤を使った箇所と比べて、施工し辛さを感じた。
「……なるほど。これが専用品か」
彼が知っていたのは、他社製品による汎用品の範囲だった。しかし専用品は違った。二層目のワックスを施工するかのように、と言うのは大袈裟かもしれないが、汎用品との差を言い表すならそれが一番近いかもしれない。
「なぜ、あの高耐久ワックスを買う時に、専用下地剤を買わなかったんだ……」。彼は思わず、過去の自分の行動を悔やんだ。
ワックスが乾燥した後、彼がクロスで拭き上げると、その艶は過去に経験した物とは別の物だった。高耐久ワックスが光を反射し輝く光沢とするなら、北欧ワックスは光を吸収し光を纏う様な艶、凪状態の静かな湖面の様な落ち着いた艶だった。
「なんだ、これ……」
彼は思わず声に出し、そのボンネットの仕上がりにただただ驚愕した。これは、単なる艶ではない。触れば手が吸い込まれそうな艶を放っている。
彼はこの時、完全にこのワックスメーカーの虜となったのだった。
彼はまだ、このワックスメーカーが持つ世界の、ほんの片鱗しか見ていなかった。まだ多種多様なワックスに加え、今回の倍の値段の高額な製品も存在している。そして、さらに高みを目指した製品が新たに発売されることは、この時の彼は知る由もなかった。
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