第6話 日常への回帰と蓄積された汚れ
カー用品店の新店舗オープンからおよそ二週間が経過し、近隣の賑やかさが落ち着きを見せ始めたころ、彼もまた普段と変わらない日常を送っていた。
新店で味わった至福のドライブの余韻は、その後しばらく彼の生活のエネルギー源となっていた。毎朝、愛車をガレージに収めたままの状態で見つめ、その完璧な仕上がりに静かな満足感を覚えていた。
しかし、時が経つにつれて、愛車を覆う白いボディは、避けられない日常の汚れを少しずつ纏い始めていた。洗車から二週間。目に見えない微細なチリが降り積もり、光を丸く受け止めていた天然ワックスの艶に、ごくわずかではあるが影を落とし始めていた。
先週の休みは雨だった。そのため、彼にとっての週末の日常の一部が欠けてしまった。愛車を外に出しての洗車という儀式が中断されたその空白の一週間が、わずかながらも汚れの蓄積となって現れていた。
それは、彼が見過ごせない変化だった。この二週間徐々に汚れていく愛車を見ている事しか出来ず、仕事が終わり帰宅後に洗車しようにもこの時期日没が早くその時間帯は既に夜の帳が下りている。そんな何もできない悶々とした日々から今日解放されたのだ。
窓の外に広がる週末の晴天を確認し、彼は今日の予定に洗車を組み込む。彼にとって、洗車は『最高の状態』を維持するための、欠かすことのできない日常の一部だった。
いつもより少し早めに起きた彼は、いつものように珈琲を淹れようと豆のストックを確認した。珈琲の香りが日常を満たすには必須のアイテムだが、お気に入りの豆のストックが心もとない量になっていることに気が付いた。
彼は迷わず家庭用焙煎機を準備し、ガラス瓶に保管していたお気に入りの生豆を規定量、慎重に焙煎機へと投入した。
彼は焙煎機を動かすのと同時進行で、マキネッタで淹れ始めた珈琲と、トースターから焼きあがったパンを持ち、リビングでいつものルーティーンに入るのだった。
タブレットを開き、SNSをチェックしながら珈琲を飲む。
新店舗についての投稿も落ち着きを見せ、賑やかだった洗車界隈も、また日常を取り戻しつつあるようだった。目新しい情報は少ない。彼は、その日常的な情報を特に意識することなく、ただ漠然と眺めていた。
何時も通りゆっくりと進む朝の時間。パンを食べ終わったところでちょうど焙煎機も冷却を終え停止したようだ。彼は残った珈琲を一息に飲み干し、焙煎機から豆を取り出しキッチンを一通り片付け終わると、ガレージへと向かった。
何時も通り扉を開け、まずは日常用の照明をつける。
二週間……一般的な人や、あまり洗車しない人から見れば、まだまだ洗い立てで、「少し汚れてきた」と思う程度だろう。しかし、洗車中毒者の変態である彼、または同じ世界に生きる彼らにとって、この二週間は耐え難い時間経過になってしまう。
照明に照らされ、愛車が彼の前に姿を現す。
秋の花粉のピークに入ったことと、数回の雨によって、ボディ全体が曇っている様だ。
愛車の周りをゆっくり1周回り、汚れの状態を確認していく。光を丸く受け止めていたはずの艶も、ごくわずかではあるが影が落ち始めていたのが見て取れる。
彼の脳裏には、以前、新店舗のモニターで見た、あまりにも非現実的な動画がフラッシュバックした。
軽快な音楽と音声でのアナウンスが響く中、走る車に、巨大なバケツから色付きの水を掛けられる。しかし、その水は一切ボディに残らず、まるで重力に忠実であるかのように”真っすぐ下に”落ちていく映像。その横には、「雨で汚れが落ちる」「綺麗が続く」という謳い文句が添えられていた。
『そんなわけあるかいっ』
彼は心の中で毒づきながらも、そういった過剰広告や、それを理解していてもある程度許容しそれを求める需要があることは理解していた。
『雨で表面の汚れは何かしらコーティングされていれば落ちるだろう、でもそのボディに残った水分にまた次の汚れが付着するから結果的に汚れる』
そんなことを考えながら――自分と愛車しかいないガレージへ、シャッターの開く音が静かに響く。今日もまた、儀式(洗車)が始まるのだった。
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