第四章 記録者
朝、目を覚ました。
窓の外から、いつもの光が差し込んでいる。
カーテンの隙間から見える空は、透き通るような青。
鳥の声、風の音、遠くの車の走行音――どれも完璧すぎるほど穏やかだった。
沙也加はベッドから起き上がり、部屋を見回した。
整頓された机、本棚、観葉植物。
何もかも見覚えがあるのに、微妙に違う。
壁の時計の針は、正確に「7:00」を指していた。
――25という数字は、もうどこにもない。
スマホの画面を点ける。
通知欄に、新しいメッセージ。
〈出勤時間が変更になりました〉
送り主は「青藤出版・管理部」。
職場の名前は正しい。けれど、ロゴが違っていた。
見慣れた青いロゴではなく、白地に赤い円。
「……新しくなったのかな」
呟きながら、ふと壁にかかった社員証を見た。
そこには、自分の顔と――違う名前。
〈白石ミヅハ〉
息が止まる。
見慣れた写真の下に、見知らぬ名前。
胸の奥がざわめく。だが、どこかで“これは正しい”と感じている自分もいた。
スマホの連絡先を開く。
「千佳」「悠斗」の名前はない。
代わりに、「鹿野管理官」「記録課」「祭事部」という見慣れない部署名が並んでいる。
外に出ると、町は眩しいほど整っていた。
舗装された道、並木道、均等に配置された建物。
人々が笑顔で通勤している。
だが、笑い声がすべて同じトーンで響く。
まるで一つの声を、何度も複製して流しているようだった。
交差点の看板には、見慣れた地名。
〈青藤市 境地区〉
“境”の文字だけが、他とは違うフォントで新しく書かれている。
沙也加は歩きながら、胸の奥で何かが軋むのを感じた。
誰もが自然に振る舞っている。
でも、この町全体が、再生された映像のようだった。
風が頬を撫でる。
その感触だけが、唯一“生”を証明していた。
昼休みのオフィスは、静かだった。
人々の笑い声が遠くから響いてくるが、どれも同じ高さの声だった。
まるで誰かが一つの音声を再生しているように。
沙也加――いや、“白石ミヅハ”は、自分のデスクに戻った。
引き出しの奥に、小さな銀色のICレコーダーが入っているのを見つけた。
見覚えはない。けれど、手に取った瞬間、懐かしいような冷たさを感じた。
ボタンを押すと、機械的な音声が流れた。
〈境町更新記録 第25期〉
〈被験体25号:白石沙也加〉
男性の声――鹿野。
ゆっくりと、淡々と語っている。
「町の再生は完了した。人々の記憶は安定し、構造体は正常に稼働している。今回は、成功率九十五パーセント」
声が淡々と報告を続ける。
「残りの五パーセントは、“記録者”として選ばれた存在に吸収される。被験体25号がその役を担うだろう。感情の残滓を保持したまま、記録層に移行することで、町はより安定する」
沙也加の手が震えた。
“被験体25号”。
それは、他の誰でもない――自分だ。
音声は続く。
「被験体の意識が完全に統合された時、町は彼女の視点で世界を観測する。観測が続く限り、町は存在を保てる」
「――次の更新まで、二十五年」
そこまで言うと、録音が一度止まった。
短い沈黙のあと、別の音が混ざる。
ノイズの向こうから、微かな息づかい。
それは鹿野ではなかった。
〈見ていて、お願い。町が眠らないように〉
女の声。
自分の声だった。
レコーダーが自動で停止し、静寂が戻った。
オフィスの窓の外で、光がわずかに揺れる。
まるで、町全体が呼吸を合わせるように。
沙也加は机に手をつき、ゆっくりと息を吐いた。
自分の記憶が、町のための観測装置になっている。
この町を見続けること――それが、生きること。
夜、オフィスの灯がすべて落ちた。
窓の外の街は、整然とした光を放ち、まるで模型のように静かだった。
沙也加は机の上に置かれたICレコーダーを見つめていた。
再生ボタンの上に指を置く。
小さなクリック音が、やけに大きく響いた。
しばらくノイズが続いたあと、子どもの声が流れた。
「……お母さん?」
それは、紛れもなく自分の声だった。
高く、かすれた幼い声。
「お母さん、わたしがいなくなっても、町を見ててね」
声の奥で、火のはぜる音と、風の唸りが重なっている。
遠くで女の泣き声が聞こえた。
母の声だった。
沙也加の胸が痛んだ。
喉の奥が熱くなり、呼吸が震える。
レコーダーの再生ボタンの上に涙が落ちた。
録音は続く。
「大丈夫。わたし、こわくないよ。この町が、ちゃんと生きていけるように……見てるから」
その声は、まるで祈りのように穏やかだった。
ノイズが一瞬だけ強くなり、声が途切れる。
代わりに、微かな息の音。
誰かがそっと囁いた。
〈ありがとう〉
それが誰の声なのか、もうわからなかった。
レコーダーの光が消え、闇が部屋を満たす。
外では、風が静かに吹き抜けていた。
その風の音が、どこか懐かしく聞こえた。
沙也加はゆっくりと顔を上げた。
窓に映る自分の姿が、ほんの少し揺れている。
鏡のようなガラスの奥で、幼い自分が笑っていた。
「――お母さん」
その言葉がこぼれた瞬間、外の街の明かりがすべて一斉に瞬いた。
まるで、町が息を吸い込んだように。
境神社の跡地は、白いフェンスで囲まれていた。
その内側では、クレーンと作業員が忙しなく動いている。
鉄骨の枠組みが組み上がり、巨大な鳥居の骨格が空に伸びていた。
コンクリートの地面は、まだ乾ききっていない。
風に混じって、塗料と鉄の匂いが漂う。
沙也加はフェンスの隙間から中を覗いた。
かつて、鏡が埋められていた地下への入り口はもうない。
代わりに、最新式の監視カメラと光学センサーが設置されている。
そのレンズが、まるで瞳のように彼女を見返した。
作業員の一人が、無線で何かを報告している。
「再建プロトコル、第四段階完了」
「了解。次は観測塔の基礎工事に入る」
その声は感情がなく、均一だった。
沙也加は思わず問いかけた。
「ここ、また神社になるんですか?」
作業員の男は、無表情のまま頷いた。
「二十五年ごとに更新される構造体です。今期は、より安定した観測が可能になります」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが響いた。
観測――その言葉は、どこか懐かしく、そして恐ろしかった。
沙也加は足元の土を見つめる。
そこには、細かい銀色の粒が混じっていた。
光を受けると、まるで砕けた鏡のように反射する。
「……全部、溶けたんだ」
かつて“御鏡の間”を覆っていた鏡が、粉末となり、土に混ざっている。
それが再び神社の基礎材として使われているのだ。
過去を、未来の素材にして。
風が吹き、フェンスのビニールが揺れた。
その向こうに、白い服の少女が立っていた。
陽の光の中で、輪郭が滲む。
沙也加は息を呑む。
少女は、二十五年前の自分だった。
「あなたが、今度の記録者」
少女が静かに言った。
声は透明で、風と一緒に空気に溶ける。
「見ていて。町が眠らないように」
少女が手を伸ばすと、その指先が光にほどけていく。
次の瞬間、彼女の姿は消えた。
フェンスの向こうには、誰もいなかった。
ただ、空だけが、白く深く広がっていた。
夜の帳が下りるころ、境神社の再建現場には誰もいなかった。
作業機械は停止し、照明だけが静かに地面を照らしている。
空気の中に、かすかな電気の匂いが漂っていた。
沙也加はフェンスを越え、ゆっくりと中へ入った。
工事中の社殿の奥に、ひとつだけ開いた扉があった。
その向こうから、淡い光が漏れている。
階段を降りると、そこはかつての“御鏡の間”だった。
だが、鏡の代わりに、無数のモニターが壁を埋め尽くしている。
画面には、町の風景が映っていた。
商店街、学校、バス停、公園。
そこに生きる人々が、静かに、穏やかに動いている。
どの映像にも、沙也加の姿はなかった。
それなのに、誰かの視線がすべてのカメラから彼女を見ている気がした。
中央のモニターに文字が浮かぶ。
〈記録を開始します〉
光がゆっくりと彼女の足元に集まり、皮膚の下へ染み込んでいく。
身体が軽くなり、呼吸が空気と一体になっていく。
心臓の鼓動が、町の明滅と重なった。
「……見てる」
沙也加は小さく呟いた。
「この町を、ずっと」
〈記録者:白石ミヅハ〉
文字が一瞬だけモニターに浮かび、すぐに消えた。
沙也加の姿も、光の中に溶けていく。
最後に、画面の隅にだけ残った。
微笑む彼女の顔。
その唇が、静かに動いた。
〈ありがとう〉
モニターの光が一斉に白く輝き、夜が消えた。
翌朝、町はいつも通りに目を覚ます。
誰も昨日との違いに気づかない。
ただ、境神社の境内の片隅で、ひとつの監視カメラだけが、ゆっくりと瞬きをした。
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