第12話

「どうだ? 上手く引き離したか?」

「ダ、ダメです! 追いかけてきてます!」


 黒い異形はさっきとはまるで違うスピードで木々の間を這い進みながら、こちらに接近してくる。


「あの化け物、なんであんなにしつこく追いかけてくるんでしょう?」

「知るか、んなこと。とにかく走れ!」


 異形はその汚泥に覆われたかのような体を絶え間なく動かし、周囲の草木を浸食しながら執拗にイチタ達を追いかける。


 奴との距離が、さらに縮まる。


「イ、イチタさん! このままだと追いつかれます!」

「分かってる!」


 イチかバチか、『アレ』を試してみようか。一瞬、例の力が頭によぎった。が、イチタは咄嗟に湧いて出たそのあまりにも無謀と言える試みを無理やり胸の奥にしまい込んだ。


 今ここで試すのは、流石に危険すぎる。自分一人ならともかく、下手に押し通せばアルフィンを巻き込むかもしれない。


「 クソッ、何か方法はねぇのか」


 結局、二人は逃げることしかできない。ありったけの力を振り絞り、全速力で森の中を駆け進む。


「うおおおおおおおおおおおおおっ」


 その無我夢中な突っ走りによって、イチタは前方に潜む変化に気づけなかった。


ーーガラッ。


「へ?」


 目の前に突如現れた急斜面足を滑らせ、二人は豪快に転げ落ちる。


「うわああああああああああっ」







「うう……」


 全身に走る痛み。幸い、地面が柔らかいおかげで大事にはいたらなかった。


「いってぇ……はっ、あいつは?」


 痛む体を起こして、背後を見る。


 追って……きてない。どうやら、無事に撒くことができたみたいだ。


「良かった……そうだ、アルフィン」


 彼を思い出し、急いで探す。視線を右隣に移すと、地面に倒れ込むアルフィンの姿があった。


「う、う~ん……」


 体を痛めたようだが、なんとか無事でよかった。時期に目を覚ますだろう。


 イチタは安堵のため息を漏らす。


「それにしても、ここは一体……」


 立ち上がって目の前の光景を眺める。ふわふわと浮かぶ小さな光。辺り一面に咲き誇る青の花園。風になびいては、花びらが舞う。それはまるで、深き森に映し出された水底のように、清廉と澄み渡っていた。


 この感覚……以前にもどこかで……。


 芽生える既視感と、暖かな気持ち。イチタはこの景色を知っている。


 何かに誘われるように。花園の中心へと歩き出す。群生した花々の真ん中で呆然と立ち尽くす。ここが危険な場所であるということを忘れてしまうくらいに、時の流れが制止したかのように、絶対的なものとしてその場に鎮座している。


「……」


「お兄さん、だあれ?」


 声と同時に現れる人の気配。イチタは振り返る。


「君は……」


 花の群生に混じってそこにいた小さな女の子。地面にまで届きそうな薄水色の髪と透明感のあるワンピースでその身を彩る。ふわっと空気を含ませて裾を広げ、花園の中央で淑やかに座るその姿はまさにこの場の神秘さを象徴する一輪の花のようだ。


 いつからそこにいたのか……およそ人の感覚では捉えようのない、意識の隙間を縫って現れた少女に対し、イチタはそこはかとない恐怖を感じていた。


「ネメはネメだよ。お兄さん、どこから来たの?」


 ネメと名乗った少女はイチタに問い返す。純真無垢なその青い瞳。とりあえず、少女から敵意は感じられない。


「俺達は、森の外から来たんだ」


 すると、少女は頬をプクーっと膨らませた。


「ネメ、森の外嫌い。こわい人いっぱいいるんだもん」


 どういうわけか、機嫌を損ねてしまったようだ。ぷいっとそっぽむいてしまった。何というか、扱いの難しい子だ。


 そもそも、どうしてこんな小さい子が、一人でこの森にいるんだろう。普通に考えれば、迷子だと断定できるけど……


 見れば見るほど、謎めいた少女だ。大自然を象徴した森という場所には、似つかわしくない恰好。それに靴だって履いていない。ここまで来るのだって、そう容易ではないはずだ。


 なのにどうして、足には土もついていなければ、擦り傷もない。服だってそうだ。汚れどころかくたびれた部分一つ見当たらない。まるで仕立てたばかりのように奇麗だ。


「君は、一人でここにいるのか?」

「一人じゃないよ! ネメ、たっくさんオトモダチがいるの!」

「そうなのか? でも、ここは危ないし、そのお友達も連れてさ。一緒にここを出ようよ」

「お兄さんがここにいてよ! そうすればネメ、ずっと寂しくなんてないから!」


 当然の帰結の如く、この場に居座る選択をする少女。なぜここまで頑ななのか、イチタには分からない。だが、このまま放っておく訳にはいかない。アルフィンが目を覚ますまで、まだ時間もかかりそうだし……少しくらいなら。


「う~ん……分かった。じゃあちょっとだけ付き合うよ。俺も連れが起きるまではここにいるしかないしさ」


 そう言うと、少女は明るく微笑んだ。


「やったぁ! ネメ、とっても嬉しい!」


 もしかしたら、話している内に気が変わるかもしれない。ここは気長に待つとしよう。


「それじゃあ、お兄さんのも貰うね!」

「もらう?」


ーードスッ。


「え?」


 背中から突き抜ける振動。視線を落とすと、自分の腹部から鎌のようなものが突き出ている。


「あ……が……」


 腹部に帯びる熱。全身に迸る電流。手足の力が抜けていく。イチタの体を貫いた鎌は、突き出した部分が引っ込むと同時にズルリと背中から抜けていく。その瞬間、腹の奥から鮮血が噴き出し、青い花を赤く染める。


「ぐっ……」


 イチタはその場に倒れた。想像を絶する激痛が襲い掛かる。


「オットモダチ! オットモダチ!」


 弾む声でそう歌いながら、少女は上半身をぶんぶんとゆする。


 少女の笑みと、腹部の焼けるような痛み。イチタには何も理解できない。なぜ少女は笑っているのか、なぜ自分は苦痛に悶えているのか。朦朧とした意識の中、まだ視界が開けているうちに、自分の身に何が起きたのかを見定める。


 自分が来た方向の反対側の場所。今この状況においては、自分の背後と言うべきか。その見上げるほどの体躯は、否が応でも視界に映り込んできた。


 様々な虫の部位をかき集めて乱雑につなぎ合わせたようなその姿。太く毛の生えた蜘蛛のような足。胸部より下はサソリそのもので、先端が丸みを帯びた尻尾にはかぎ爪状の針がある。その他にも、反り返った上部に合計六本の鎌のような前足。背中には透き通った羽。大あごはクワガタのように長太く、見るからに強剛なそれは魔物の存在感を表すのに一役買っている。


 平たい頭の上にはラフレシアのような分厚くて巨大な花が咲いていた。単体で見れば奇妙なそれですら、全体の禍々しさに飲まれてしまっているくらい、己の目に映ったその生き物はこの世のものとは思えなかった。


 普段の彼ならば、焦燥というなの鎖にその身を支配されていたことだろう。しかし、生への渇望が途絶えた今、彼の中にある希望、絶望、期待、信念、喜び、怒り……あらゆるものが消えかかっていた。


 ああ……ここで終わる。


 彼の心の中の火は、徐々に小さくなる。何も成せないまま、失意の海に沈んでいく。


 ただ……。


 ただ一つだけ……。


 終わりかけの心に、一つの願いを焚きつけるのならば……。


 あの人に……セリカに……もう一度だけ、会いたい。


『……イチタ』


 耳をすませば、記憶の中で蘇る。自分を呼ぶ、彼女の声。


『……きて』


 そう、鮮明なまでに。


『……起きて』


 まるで本当に呼ばれているかのように……。


………


……



「イチタ!」

「はっ」


 夢か、幻か……目の前に、セリカの姿がある。曇りのない翡翠の瞳が、ここにいると伝える。夢なんかじゃない。


「セリカ……」


 無意識のうちに、その名を呟いた。セリカは無言でコクリと頷く。


「俺、どうして……それにここは……」


 ここが現実だと知りつつも、イチタの心はまだ完全に戻り切っていない。セリカはそんな彼を後押しする。


「大丈夫。後は私に任せて」


 横たわるイチタを抱えたまま、セリカは頼もしく答えた。その一言で十分だったのかもしれない。


 イチタは体を起こし、貫かれた腹部をさする。服は貫通しているものの、傷は完璧にふさがり、痛みもすっかりなくなっている。それどころか、森の中を歩き回って蓄積した疲労も回復している。


 誰かが説明してくれるとありがたいが、こんな摩訶不思議な現象。言葉一つでどうにかなるものじゃない。


 まぁ、そんなこと今はどうでもいい。とにもかくにも、こうしてまた戻ってくることができたのだ。この世界に……。


 今この場で対するはあの子。近くにはあの異形の昆虫もいる。行儀よく少女の右隣で控えたまま、主の指示を待っている。すぐに襲って来ない辺り、彼女が使役していると見て、間違いないだろう。


 こうなった以上、彼女は敵だ。一体何が目的なのかは分からないけど、あれは放置していい存在じゃない。セリカも初めからそのつもりでいる。剣を抜き、既に臨戦態勢に入っている。


 毎度、絵になるこの立ち姿。もう見慣れたと思っていたけど、何度見ても美しい。その凛と勇ましいその振る舞いを見ていると、自然とこちらの士気も上がってくる。


 セリカは少女と初めて向かい合う。予期せぬ乱入に、少女は顔をしかめる。


「あなた……誰?」


 イチタと話していた時には見せなかった、もう一つの面。そこから読み取ることのできる少女の態度は、拒絶の一言だ。


「私は私。それ以外の何者でもない」


 少女のうねる感情にも動じず、セリカははっきりと伝えた。端的に答えたその言葉に、どれほどの思いが込められていたか。イチタには容易に理解できた。それは彼女が、この場に訪れた理由にも通ずる。


 しかし、それはあの子にとって芯を捉えぬ回答だった。行き場のない感情のうねりは、少女の語気を自然と強めていく。


「知らない……知らない知らない! あなたなんて知らないっ!」


 怒号にも似た、その口調。あの子にとって、それだけ彼女がそれだけ理解の及ばぬ存在であるということ。


 乱れる少女に、セリカは一歩近づく。彼女のわずかな接近も見逃さなかった少女は、過敏に反応を示した。


「嫌、来ないで……」


 セリカは構わず突き進む。


「来ないでって言ってるのにっ!」


 その瞬間、空気の流れによってビリビリとした圧が流れ込んでくる。突風と見紛うその覇気に、花びらが散る。


「こっちに来るなぁっ!」


 少女はついに叫んだ。溢れる感情の波で持って、近づくものをはねのけようとする。彼女の心の動きを掴み取ったのか、隣で控えていた異形の昆虫が満を持して動き出した。


 猛烈な勢いで、セリカに襲い掛かる。鎌状の腕を駆使しながら、巧みな連撃を繰り出す。セリカは後退しながらその連撃を受け流す。しばらく拮抗した打ち合いが続くと、相手の動きに変化が見えた。ピタリと腕が止まったかと思うと、腹部の両側面から何かを伸ばした。


 先端に鋭い棘のついた触手。腹の片側に四本の、合計八本。丁度、昆虫の気門にあたる部分からニュルリと伸び出ると、矢のごとくセリカに向かって放たれた。


 セリカはそれを剣で受け流し、躱し。何事もなくいなしていく。新たな秘策も、彼女の剣技の前には全てこけおどし。


 しかし、敵は次々とまだ見ぬ攻撃を仕掛けてくる。魔物はグワッとその巨大な大あごを開く。すると、魔物は口の中から無数の針を吐き出した。


 セリカはジャンプして針を回避する。それを見計らっていたかのように魔物は尻尾を振りながら体を回転させる。尻尾はムチのようにしなり、宙を舞うセリカへと飛んでいく。セリカは剣を盾に、その攻撃を受け止めた。


 だが、受け止めた衝撃は凄まじく、彼女はそのまま地面に向かって吹き飛ばされる。セリカは空中で体勢を立て直し、上手いこと地面に着地した。


「つ、強い」


 一目見て分かるその強さに、イチタも驚愕する。


 体の強靭さ。多彩な技。巨体に見合わぬ素早さ。どれにおいても、下水道で戦った大ムカデとは比べものにならない。


 魔物の強さを身をもって体感するセリカ。さすがの彼女も、今回ばかりは相手が悪いか。


 セリカはふぅっと息をつくと、その場で奴を観察する。


「思ったより速いね。じゃあ、こっちもちょっとだけ本気出そうかな」


 そう言うと、セリカは足を開いて重心を落とす。より深く地面を踏み、相手を見据える。白銀の剣身がキラリと光る。刃そのものが、戦いの意志を告げる。


 そこから織りなされる怒涛の進撃は目を見張るものだった。地面を強く蹴って走り出すと、瞬きする間もなく、セリカは奴の懐に潜り込む。


 魔物の反応も早い。彼女の急接近をすぐさま察知しては、持ち前の得物で迎撃を試みる。が、それでもなお、力を引き出した彼女の速さには追いつけない。


 魔物が動いた瞬間、セリカは高く跳躍する。渾身の一振りで放った鎌は掠ることすらなく、そのまま地面の上を通り過ぎ、咲き誇る花を幾本か薙いだ。


 それにより生まれた隙はセリカにとって絶好の機会だ。跳躍の勢いを利用し、流れるように剣を振り下ろす。


 宙に描かれる切っ先の轍。奇麗な半円を描いては、じんわりと消えていく。鮮やかな剣撃と同時に、奴の鎌状の腕が地面に落ちる。魔物はその衝撃で数歩後退る。魔物は尻尾の先端がセリカへと向けられる。尻尾の根元が膨らむ。膨らんだ根元は先端へど移動していく。


 尻尾の先から、何かが放たれる。粘り気のある黒い液体。飛んできた液体をセリカは走りながら避けていく。連続で吐き出される液体は彼女に一発も当たることなく、全て看破されてしまう。


 セリカはあっという間に魔物との距離を詰める。手を打ちつくした魔物は、なすすべなく再び懐への侵入を許してしまう。


 懐へ潜り込んだセリカは下から剣を斬り上げ、魔物の体を斬りつけた。


 ブシャアっと体液が噴き出し、魔物は断末魔を上げながら生き絶えた。

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