第二十五章:江戸城、停電

(寛永十年・芝 増上寺)


徳川家の菩提寺である増上寺。その最奥にある御台所・江の霊廟の前に、蔵人は立っていた。 闇に沈む墓所は、死の静寂に包まれている。だが、蔵人の肌は、そこにあるはずのない「生々しい作為」を感じ取っていた。


「……御免」


蔵人は、躊躇なく墓石を動かした。 家光から与えられた権限と、彼自身の膂力によって、巨大な石蓋がずらされる。 地下の玄室へと続く階段。黴臭い空気の中に、わずかに混じる「油」の匂い。


蔵人は松明を掲げ、玄室へと降りた。 そこには、漆塗りの立派な棺が安置されていた。七年前、病没した江が眠っているはずの場所。


蔵人は、忍び刀の切っ先で、棺の蓋をこじ開けた。


ギギギ、と乾いた音が響き、中身が露わになる。


「……やはり、か」


蔵人の目が、冷たく細められた。 棺の中には、骨など一片もなかった。 入っていたのは、当時の江の体重に合わせて詰め込まれた、無数の「河原石」。 そして、その石の上に、一房の「黒髪」と、古びた「扇子」が置かれていただけだった。


それは、七年前に彼女がここから脱出した際に残した、徳川への、そして息子・家光への「訣別状」だった。


「……七年間。我々は、石ころを拝まされていたというわけか」


蔵人は、その扇子を懐に入れた。 証拠は十分だ。 母は生きている。そして、忠長も生きている。 二つの「死人」は、今まさに、江戸の喉元に刃を突きつけている。


蔵人は、踵を返した。 一刻も早く、家光に報告せねばならない。 だが、彼が地上へ出た瞬間、江戸城の方角を見て、息を呑んだ。


「……!」


夜空にそびえる巨大な天守。その周囲を、不気味な「黒い霧」が包み込み始めていた。


(同刻・江戸城 西ノ丸)


異変は、音もなく始まった。


家光が広間で指揮を執っていた、その時である。 突如、廊下を照らしていた燭台の火が、風もないのに一斉に消え失せた。


「……何事だ」


近習が慌てて火を点けようとするが、火打石は火花を散らすだけで、灯芯に火が移らない。


「……酸素か」 家光は、即座に転生者の知識で理解した。 「……火が点かぬのではない。空気が変質している」


次の瞬間、広間の外から、衛士たちの悲鳴にも似た「うめき声」が聞こえ始めた。 敵襲を告げる太鼓も、半鐘も鳴らない。 ただ、ドサリ、ドサリと、人が倒れる音だけが響いてくる。


「六道!」 家光が叫ぶ。


「はっ!」 控えていた六道が、鼻を覆いながら飛び出してきた。彼は懐から試験管のような硝子瓶を取り出し、空中に撒いた。 液体が気化し、刺激臭が広がる。


「……風魔の『無明煙』です!」 六道が叫んだ。 「毒ではありませんが、特殊な成分で『火』を消し、吸い込んだ者の平衡感覚と視覚を奪います! ……城内の空気、すべてが汚染されています!」


それは、物理的な「停電」ではなかった。 視界を奪い、連絡手段である「火」と「音」を封じ、指揮系統を寸断する、強制的な「機能麻痺」。 巨大な江戸城というシステムを、たった一つの「煙」でダウンさせる、風魔ならではの広域制圧術だった。


「……おのれ、風魔」


家光は、ハンカチで口元を覆いながら、冷静さを保とうとした。 視界が利かない。命令が届かない。 この状況下で、もし刺客が放たれれば、数万の兵がいても無意味だ。


「『凪』! 敵の位置は!」


「……聞こえません!」 『凪』が、苦悶の表情で耳を押さえていた。 「……煙の音が……鼓膜を打ちます。 ……城内すべての音が、反響し、歪んでいます。 ……奴ら、換気口の反響を利用して、私の『耳』を潰しに来ています!」


視覚も、聴覚も、封じられた。 完全な孤立。


その時、暗闇の奥から、衣擦れの音だけが近づいてきた。 衛士たちが次々と倒れる中、悠然と歩いてくる気配。


「……誰だ」 家光が、手元の刀に手をかけた。


「……久しぶりだな、兄上」


その声を聞いた瞬間、家光の全身が粟立った。 聞き覚えのある声。 だが、記憶にあるそれよりも遥かに低く、底知れぬ怨念を含んだ声。


煙の向こうから、一人の男が姿を現した。 黒装束に身を包み、手には抜き身の妖刀。 その顔は、死人のように蒼白だが、瞳だけが狂気じみた光を放っている。


昨日、死んだはずの男。 徳川忠長。


「……忠長、か」 家光は、驚愕を飲み込み、冷徹に弟を見据えた。 「……地獄から這い戻ったか」


「地獄ではない」 忠長は、薄く笑った。 「……ここは、兄上の『仕組み』の外側だ」


忠長の後ろには、異形の風魔たちが、音もなく壁や天井に張り付いている。 城内の警備兵は、すでに無力化されていた。 この広間だけが、世界から切り離された「処刑場」となっていた。


「……母上は、どうした」 家光は問うた。


「母上は、特等席におられる」 忠長は、天井を指差した。 「……この城が燃え落ち、兄上が血に伏す様を、一番良い場所でご覧になるためにな」


「……そうか」 家光は、ゆっくりと刀を抜いた。 「……ならば、ここが貴様らの二度目の墓場だ」


「やってみろ、兄上!」 忠長が叫ぶと同時に、風魔たちが一斉に襲い掛かった。


だが、その瞬間。 広間の天井が突き破られ、一人の影が落下してきた。


「……させぬッ!」


閃光一閃。 先頭の風魔二人が、袈裟懸けに斬り裂かれる。 着地したのは、増上寺から疾風のごとく帰還した、蔵人だった。


「上様! 御無事ですか!」 「……遅いぞ、蔵人」 家光は、口元を緩めた。 「……だが、間に合った」


「報告します!」 蔵人は、忠長と対峙しながら叫んだ。 「……増上寺の棺は、空でした! ……中身は石ころと、扇子一本!」


「……やはりな」 家光は、忠長に向き直った。 「……バグの正体は確定した。 ……これより、駆除を実行する」


江戸城の本丸で、将軍と「死んだはずの弟」が刃を交える。 煙に包まれた城内で、家光の「影」と、忠長の「風魔」による、血で血を洗う総力戦が始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『転生家光と「影」の創世記 〜虐げられた非人・遊女を最強の暗殺集団に育て、春日局(ひかり)の裏で江戸の闇(あく)を葬る〜』 @melon99

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ