要介護5の亡霊

ゆいゆい

第1話 激高

 東京都某所にある皆川中央病院。俺、小川翔馬は新人看護師として4月から晴れて入職したのだが、2ヶ月が経って早くも後悔し始めている。就職先、間違ったなって。大学生4年生だった頃にいくつかの病院を見学して回り、当院に魅力を感じた俺の目は節穴だったらしい。


 1ヶ月の新人ローテーションを経て、俺が配属されたのは5階東病棟。内科の慢性期病棟で、新人で配属されたのは俺だけ。病床数50で主に急性期の患者の転ベッド先になっているが、脳外科や整形外科の患者さんも一部受け入れている。言い方が悪いが、退院先が見つからない訳アリ患者が多く、故に平均入院日数も長い。そして、介護を必要とする、重症度の高い患者さんが非常に多い。


 俺が当院に不信感を抱いたのが配属されて3日目、入浴介助に介護士と入った時だ。

「小川さん、よろしく」

「はい。ご指導よろしくお願いします」

 そっけない挨拶をしてきたのが介護士の阿知羅隆さん。40歳前後の恰幅のあるおじさんで、介護福祉士の資格は持ち合わせていないという。

「全部教えるから、頑張って、早く覚えてよ」

「はい。ありがとうございます」

 メモ帳とボールペンを手に、俺は元気よく返事をした。俺が当院にポジティブな印象を持っていたのはこの時までだった。


 入浴介助は2ヶ所で行われ、阿智羅さんが担当したのが重症度の高いほうだった。ストレッチャー浴と言って、横になりながら浴槽につかることができるハイテクな機械を用いた介助なのだが、車椅子にさえ乗せられないような患者さんばかりなので介助量が大きい。普通は2人がかりで行うようなケアなのだが、阿智羅さんは1人で行うのだという。そんなに介護の人員が足りてないのか、と最初俺は訝しんだ。


 最初にケアしたのが江川清さん。86歳、肺炎で入院。肺炎そのものは治癒したが、脳出血の既往があり、要介護5。要介護5について簡単に言えば、1番介護が必要なくらいに自分じゃ動けない患者さんだと思ってもらえればいい。手足はかるく動かせるが、食事介助、吸引、オムツ交換、入浴介助などすべてに全介助が必要になる。

 そして、つい2週間前まで疥癬にて治療を施していたとの情報を俺は得ている。疥癬とはダニが原因の皮膚の感染症で、スタッフは感染対策を徹底してケアに当たらなければならない。その対策がかなり大変だと聞いていたので、治癒していてよかったと俺は安心していた。


 通常の感染対策にて阿智羅さんは手袋をつけて介助にあたっていた。更衣、移乗動作、洗髪……淀みなく介助をしていた。俺は阿智羅さんの手技をそばで見ながらみっちり勉強した。

 阿智羅さんが腹部を洗っていた時だった。それまでまるで反応のなかった江川さんが突然阿智羅さんの前腕をわさわさ触り出してきたのだ。そして、その瞬間だった。

「触んじゃねえよ!!!」

 周囲に聞こえないくらいの声をあげて阿智羅さんが江川さんの腹部を右手で殴った。江川さんはうめき声のような悲鳴をあげて手を下ろし、そしてまた動かなくなった。

 眉間に皺を寄せ、般若のような表情をしていた阿智羅だが、数秒後には何事もなかったかのように介助を再開した。

「小川さんも気をつけろよ。こいつら、何してくっかわかんねえからな」

 その後も阿智羅があれこれ指導をしてくれたが、仕事を終えて俺が覚えていたのはこの一場面だけだった。


「ええ、亀田さんもう食介終わったんですかぁ。さすがですぅ」

「こんなん朝飯前よ」

 配属されて2週間が経ち、病床のおおよその相関図が見えてきた。患者に日常的に暴力を振るうのは介護士3人。阿智羅、亀田、熊元。いずれもベテラン男性介護士だ。亀田は見た目がウミガメみたいなので、名が体を表す典型例と言えるだろう。熊元は反対にゴボウのような細身だが、目つきが悪く、テレビに犯罪者として出てきてもおかしくない顔つきをしている。

 こいつらは隙あらば、物言わぬ患者を殴り、蹴り、なじり続ける。しっかりしている患者や、面会に来た家族にバレないように。そして、周囲のスタッフはそれを見て見ぬふりをしている。噂によると、阿智羅に思いを寄せる看護師が何故か多いらしい。デブで外見がイマイチなわりに、ワイルドなキャラが職場でも飲みでもウケているのだとか。だから、病棟を牛耳る阿智羅達に媚びを売るスタッフはいれど、その悪事を公表しようとする勇敢な人はいないようだ。つくづくくそったれな部署だと、俺は反吐がでた。


「明日転院が1件来るからよろしくねー」

「はい!」

 師長の太田さんが朝の挨拶でそれを周知する。転院患者の入院時対応は残念ながら俺にはまだ任されていない。送り先の病院から送られてきた患者さんの情報を、俺は仕事終わりに確認した。

 百目鬼どめき重五郎、70歳。脳出血術後4週間、四肢麻痺あり全介助。経管栄養、オムツ対応……ここでよく見られるような患者さんの典型例だ。

「おい、ちょっと借りるぜ」

 情報が書かれた紙を奪い取ったのは阿智羅だった。

「まためんどくせえのが来やがるな。太田さーん、受け入れ拒否してくださいよーぉ」

「私にそんな権利ないわよ」

 気持ちの悪い猫撫で声に、太田師長はにこやかに答える。師長ならもっと阿智羅にきつく指導してくれよ。俺の憤りは日々高まっていった。

 

 翌日10時半、ストレッチャーに乗って百目鬼重五郎さんは転院してきた。細身ながら意外と四肢に肉付きのみられる患者さんだった。

 何でもない転院のはずだった。ただ、この日から病棟に次々と惨劇が起きるようになるとは、当然誰にも予想つかなかったろう。

 

 

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