銀座の残響【昭和初期】
1936年2月25日 (火)、226事件前日
東京、銀座四丁目。1936年2月25日の夜、気温は氷点下に落ち、吐く息が白く凍る。銀座の交差点は、路面電車の軋む音と、馬車の蹄の響きで満たされる。松坂屋の五階建てのビルは、ガス灯と電灯が混在し、赤と青のネオンが濡れた石畳に映る。
洋装店のショーウィンドウには、マネキンがモダンガールのドレスを纏い、通りをゆく女性たちのボブカットが雪片を払う。サラリーマンのフェルト帽、軍人の肩章、女学生のセーラー服が、交差点で交錯する。カフェー富士の木製看板は、ガラス窓から漏れる燭光に揺れ、入口の暖簾が風にそよぐ。店内からは、ジャズバンドのサックスとドラムが、かすかに通りへ流れる。
カフェー富士のカウンターに、
「葵ちゃん、将校さんたちが奥にいるわ。いつもより騒がしいから、気をつけて」
カウンターの後ろで、佐藤絹子が囁く。四十代の絹子は、元ホステスで、今はカフェー富士の女将役だ。黒髪をアップにまとめ、深紅のドレスが彼女の白い肌を際立たせる。美津子の親友で、葵を娘のように見守る。葵は頷き、銀のトレイにウィスキーのボトルとクリスタルグラスを乗せ、奥のテーブルへ向かう。そこには、陸軍の青年将校たちがいた。肩章の金糸が燭光にきらめき、軍服の襟は汗で湿っている。彼らは酒を煽り、声を荒げる。「財閥の豚どもめ」「天皇の敵」と吐き捨てる声が、ジャズに混じる。葵は静かにグラスを置き、微笑みを浮かべるが、心は別の場所にあった。
「ねえ、君、名前は?」
一人の将校が、葵の手首を掴む。20代半ば、頬に刀傷のような跡がある。葵は一瞬身を引くが、すぐに笑顔を貼り付ける。
「葵です。もう一杯、いかがですか?」
「葵、か。清らかな名前だな。この銀座の泥には似合わねえ」
将校は笑うが、目は冷たい。葵は彼の手をそっと振りほどき、カウンターに戻る。背後で、将校が叫ぶ。「明日、この国は変わるぜ!血で洗われるんだ!」
その夜、葵は店の裏口で煙草を吸った。雪が肩に積もり、銀座四丁目の喧騒は遠い。彼女は知らなかった。翌日、二・二六事件が東京を震わせ、首相官邸や三井本社が襲撃され、血と雪が都を染めることを。そして、その事件が、彼女の人生を不可逆に変えることを。
影の生い立ち
葵の母、桜井美津子は、1910年代の銀座で「夜の女王」と呼ばれた。茨城の農村出身の美津子は、15歳でカフェー女給として上京し、透けるような肌と鋭い才気で頭角を現した。英語を独学し、外国人客と流暢に会話した。財閥の令嬢たちが津田塾や聖心で学ぶ西洋文化を、彼女は銀座のカウンターで吸収した。だが、1917年、一人の男との出会いが、彼女の人生を暗転させる。
葵は、母の背中を見て育った。銀座の裏通り、木造アパートの薄暗い部屋で、母のドレスを借りて鏡の前で踊った。客から貰った英語の小説――ディケンズやオースティン――を読み、発音を真似た。だが、葵の心には、父の不在が重くのしかかった。良平の正妻が産んだ娘、堀内静子は、津田塾を卒業し、1930~1932年にロンドン大学で教育学を学んだ。葵は、読売新聞で静子の写真を見た。コロンバンでモダンなドレスに身を包み、外交官と笑う静子。彼女の笑顔は、葵の知らない世界の光だった。
ある夜、母が静子の話をした。「あの子は、良平の誇りよ。ロンドンで学び、銀座で輝く。葵、あんたも負けちゃいけない」美津子の言葉は、葵の胸を刺した。静子は堀内家の「陽」、葵は「影」。新聞を握り潰し、葵は鏡を見た。母の美貌を受け継いだ顔、だがその瞳は、銀座のネオンのように冷たく、鋭い。静子への嫉妬は、葵の心に毒の根を張った。「いつか、あんたの光を奪ってやる」彼女は呟いた。
「葵、覚えておきなさい。あんたは私の子よ。誰にも頭を下げなくていい」
美津子は病床でそう言ったが、葵は知っていた。彼女は堀内家の「汚れ」、銀座の「夜の娘」なのだと。
女学校の茨の道
1934年、葵は16歳で東京の私立女学校、桜蔭学園に入学した。母の貯金と、
「ねえ、あの子、桜井美津子の娘なんでしょ?なんでこんな学校に来たの?」
教室の隅で、令嬢たちが囁く。葵は教科書に目を落とし、無視する。だが、休み時間、彼女の机に「汚い女」と書かれた紙が置かれる。体育の時間、バレーボールで誰も葵にパスしない。給食の時間、彼女のトレイに誰かが塩を振りかける。教師は見て見ぬふりだ。「堀内さん、もっと品のある振る舞いを。あなたのお母様とは違うのですから」
ある日、葵が教室に入ると、黒板に「娼婦の娘」とチョークで書かれていた。中心にいたのは、近衛文子(近衛文麿の姪)。文子は笑い、仲間が囃す。「葵さん、銀座のネオンは楽しい?お母様の客、どんな人?」葵は唇を噛み、反撃した。「文子さん、英語で話してみたら?あなたのお父様の政治、外国じゃ笑いものよ」葵の流暢な英語に、教室が静まり返った。だが、その夜、葵のロッカーに、母の写真に「売女」と落書きされた紙が貼られた。トイレで、葵はそれを握り潰し、鏡に拳を叩きつけた。ガラスがひび割れ、手から血が滴る。
「どうして私だけ…」
唯一の救いは、英語の授業だった。母から教わった発音と、銀座で耳にした会話が、彼女を輝かせた。教師は驚き、「まるで外国人」と評した。だが、それが新たな火種を生んだ。文子たちは、葵を「気取った女」と呼び、廊下で肩をぶつけた。葵は決めた。この学校で、誰よりも強く、賢くなることを。
皇族子弟との出会い
1935年、桜蔭学園の文化祭。葵は英語劇『オセロー』のデズデモーナ役に選ばれた。流暢な英語と、舞台での儚げな美しさが観客を魅了した。その中に、
文化祭後、朝彦は葵に手紙を送った。「君のデズデモーナは、まるで本物の天使だった。話をしたい」葵は戸惑った。皇族との交流は、彼女の出自と秘密――カフェー富士での仕事――を危険に晒す。だが、誠実な文面に心を動かされ、銀座のコロンバンで会うことにした。
コロンバンの窓際、葵は朝彦と向き合った。彼は英国風ツイードスーツを着ていた。
「葵さん、君の英語は素晴らしい。どこで学んだんだい?」 朝彦の純粋な問いに、葵は微笑んだ。
「母から、です。少し、洋書も読みます」
「すごいな。僕には、君のような自由がない。皇族なんて、鳥籠さ」
二人は毎週コロンバンで会った。朝彦はシェイクスピアを引用し、ビング・クロスビーのレコードを貸した。葵は銀座の客の噂話を、慎重に選んで語った。だが、危機が訪れた。1935年春、近衛文子が、銀座で葵を見かけた。文子は、葵がカフェー富士でトレイを持つ姿を目撃し、桜蔭で噂を広めた。「堀内葵は銀座でホステスをしているのよ!娼婦の娘が!」葵は恐怖した。学校にバレれば退学だ。
ある日、教室で文子が葵を追い詰めた。「葵さん、夜の銀座、楽しい?どんな客が来るの?」仲間が笑う中、葵は言葉を失った。その時、朝彦が現れた。学習院の文化交流で桜蔭を訪れていた彼は、噂を聞きつけたのだ。「文子さん、噂は慎むべきだ。葵さんに失礼じゃないか」朝彦の静かな声に、文子は顔を赤らめ、黙った。朝彦の影響力で、噂は収まった。葵は彼に感謝し、心が近づいた。
1935年夏、葉山の
「葵、君は…まるで銀座の夜に咲く睡蓮だ。誰もがその光に手を伸ばすのに、決して触れられぬ」
朝彦の声は、詩のように低く響く。葵は微笑むが、胸に恐怖が走る。彼女は、銀座の客の視線を知っている。だが、朝彦の目は、欲望ではなく、純粋な憧れだった。
夜、燭光が葵のドレスの曲線を浮かび上がらせる。髪はジャスミンの香りを漂わせ、鎖骨の影が朝彦の目を奪う。海の波音が、窓を叩く。葵は、愛と破滅の間で揺れる。朝彦の手が、彼女の頬に触れた。
「葵、君は僕の心に響く旋律だ。ジャズの調べのように、束の間なのに、永遠に囚われる」
彼の唇が、葵の額に、首筋に触れる。ドレスが床に落ち、葵の肌は燭光に白く輝く。彼女は、朝彦の優しさに身を委ねた。だが、心の奥で、彼女は知っていた。この夜は、永遠には続かない。
別離の刃
1936年2月26日、二・二六事件が起きた。雪の東京で、青年将校が反乱を起こし、首相官邸や三井本社を襲撃。葵はカフェー富士で、客の将校たちの狂気を思い出した。事件は4日で鎮圧されたが、東京の空気は一変した。軍国主義が加速し、銀座のネオンすら暗く感じられた。
事件後、
数日後、近衛文子がカフェー富士に来た。彼女は、
その夜、葵はアパートで母の写真を抱き、嗚咽した。朝彦からの最後の手紙が届いたのは、3月だった。「葵、君を愛している。だが、皇室と国のために、君を忘れなければならない。僕の弱さを許してくれ。君の仕事と出自が、家族を危険に晒すんだ」葵は手紙を燃やした。銀座のネオンを見上げ、彼女は誓った。「この国は、私を認めない。なら、私がこの国を壊す」
怨嗟の芽生え
二・二六事件後、葵は桜蔭学園を中退した。母の病状悪化と学費不足もあったが、彼女の心は学校にない。カフェー富士で働きながら、英語の勉強を続けた。母の小説や、朝日新聞の国際欄を読み、米国の自由と科学に憧れた。
ある夜、カフェー富士で、葵は客の海軍将校を見た。
「この帝国は、弱者を踏みにじる。父、静子、朝彦…みんなくそくらえだ」
葵は、米国大使館の外交官、ジョン・ハリスと話した。彼は葵の英語に驚き、言った。「君の才能は、銀座で埋もれている。米国なら、輝けるよ」葵の心に火が灯った。米国なら、堀内家の影も、皇族の鳥籠も消える。だが、彼女の胸には、復讐の種が根を張っていた。帝国の不条理を暴くために、彼女は力を求める。
米国への旅立ち
1937年、桜井美津子が死去した。葵は、母のドレスとカフェー富士の貯金を売り、学費を貯めた。ジョン・ハリスの紹介で、ラドクリフ大学(ハーバード大学の女子部)の奨学金試験を受けた。英語と数学の成績は、試験官を驚かせた。
1938年5月、葵は横浜港から米国へ旅立った。港は、荷揚げの労働者、別れを惜しむ家族で賑わう。龍田丸の汽笛が響き、葵は二等客室の狭いベッドに荷物を置いた。船内は、木製の食堂、塩気を含んだ甲板、星空の下のダンスフロア。葵は、甲板で大西洋の風を感じた。日本の湿った空気とは違う、乾いた自由の匂い。船内のアメリカ人学生は、葵に話しかけた。「日本から?ハーバードに行くの?すごいね!」葵は微笑んだが、心は孤独だった。彼女は、帝国を捨て、新たな戦場へ向かう。
ニューヨークに到着した。エリス島の入国審査を抜け、摩天楼の影に立つ。葵は、ラドクリフ大学で物理学を選んだ。ニュートンの法則、アインシュタインの相対性理論に、彼女は真理と力を求めた。だが、心の奥には、別の目的があった。米国で学び、力を得て、日本に戻る。そして、帝国の偽善を暴くこと。
教授、ジェームズ・コナントは、葵の論文に注目した。「ミス・堀内、君の才能は、科学を超える。戦争が近づいている。物理学は、未来を決めるよ」
葵は微笑んだが、心で呟いた。
「戦争か……ならば、私はその火を操る……原子の火を……」
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