第12話 満天

 クヌギさんの視線が、靴の爪先に落ちる。

「俺はさ、絵を描くときが一番楽しくて、一番生きてるって思えてたんだよね。絵を描くことで生きてた。けど、絵を描くだけじゃ生きられないことに気づいちゃった」

 楽しむだけじゃ生きていけないってことに。

 ぽつぽつと低い声が漏れ落ちて、涙のように染みていく。

 クヌギさん、泣いてるのかな。泣きたいのかな。

 違うな、……きっと泣きたくないんだな。

「絵で生きていくだけの力がないことを、知った。それでもどうしても捨てられなかったけど、だからずっと無視してた。夢も、自分の気持ちも。いつの間にか気づいたら大人になって、周りと同じように就活やって、今はこうして会社員で、絵なんて全然、描く暇もなくなって」

 クヌギさんがゆっくり、小さくブランコを漕ぎ始めた。前に、後ろに。

 進んで、戻る。少し上に上がって、地面に足をつけて。

「たぶん俺は止まってたんだよ。なんでもないふりして、なんとか必死に楽しんで、今を笑って、絵がなくたって大丈夫だって思いこもうとした。でもこの間湊都さんに褒められたとき、なんていうのかな……嬉しい、んだけど、それと全然違うんだよね。嬉しい、なんかじゃなかった。仕事で褒められた時と全然違ったんだよ。きらきらした、っていうのかな……いや、ぎらぎらかな。なんかこう、ぶわって……ばあああって」

 片手でブランコの鎖につかまって、もう片方の手を広げて、クヌギさんは眉を寄せて言葉を探す。

 腕を振って、うーんとうなって、もう一度強く地面を蹴って。

 舞い上がったその視線が、星空に吸い込まれたのが見えた。

「――それで、あのあと一人になったとき、久しぶりに白紙を出してきて、シャーペン手に持ってさ」

 ずざっと、勢い良くブランコが止まる。また視線が、靴に落ちる。震える声も、足元に落ちる。

「そしたら、びっくりするくらい、どんどん絵が生まれてくるの。楽しくて仕方なくって、夜の二時とかそのくらいまで、もう夢中でずっと描いてたよ。それで思った、やっぱり俺は、絵が、ほんとに大好きだって」

 絵だけじゃ生きていけないけど、絵がなきゃ生きていけないって。

 そう結んで、選んで、クヌギさんはふわっと笑った。

「これは俺から言っていいのかわからないからぼかすんだけどさ、アパートの他の人も、いるんだよ。俺みたいにどうしたらいいかわからなくなって、中途半端に大人になったり、年月ばっかり勝手に大人になって、置いてけぼりくらってたりね」

「……私と、一緒」

「そう、みんな一緒」

 大人のなり方なんて誰にも教わらなかった。

 何もわからないまま、手探りで、あるいはずるずる時間と周りに引きずられるまま、気がついたらどんどん年だけ重なって、子どもではいられなくなって。

 まだ大人じゃない、そんなこと言っていられない。

 もう子どもじゃない、そんなこと言うのをゆるされない。

 もう大人じゃない、まだ子どもではいられない。

 そんな微妙な時期の私と、通り抜けたアパートのみんな。

 でもね、とクヌギさんがまた、ブランコを漕ぎ始めた。

 さっきよりもずっとゆっくり、本当にゆっくり。

「湊都さんがね、来てから、みんなちょっとずつ色々変わってるんだよ。新しく始めたり、なにか取り戻したり、大事なことに気がついたり、大事なものを思い切って手放したり。どれが良いことで、どれが悪いことなのか、今はまだわからないし、たぶんこれから先一生、わからないんだろうけどさ。けど、でも、みんな前よりずっと、すっきりしたいい顔してるんだよね」

 ねえ、漕いでみようよ、とそこでふいに言われて、私は足元を見下ろした。

 大人が堂々とブランコ漕げるのなんかこの時間くらいしかないでしょ、とクヌギさんは笑う。

「……そうですね」

 私も少し笑って、地面を蹴った。

 ブランコ。どうやって漕ぐんだっけ。

 もう何年ものってないはずなのに、体はちゃんと覚えていた。

 踏み出し方を、着地のしかたを、風の切り方を、揺れ方を、前に行くには、後ろに戻るには、どう動いて、どう呼吸して。

「湊都さんが、みんなを少しずつ動かしてるんだよ。ゆっくり、ゆっくり。進んでるのか、戻ってるのか、立ち上がろうとしてるのか、かがもうとしてるのか、俺たちも、誰もわからないけどさ。けど、止まってた時間が、人が、やっと動く勇気を貰ったんだ」

 私の隣で同じようにブランコを漕ぎながら、楽しそうに漕ぎながら、クヌギさんは笑っていた。

 満天の星空みたいな笑顔で、満天の声で言ってくれた。


「湊都さんは、このアパートの住人だよ。胸張って、試験行ってきて」

「……はいっ!」

 頑張ろう。

 ひときわ大きくブランコが揺れて、足が星空を踏んだ。


 私は、大人になったっていいんだ。

 なれなくたっていいんだ。

 青はひどく難しくて、あんなに苦しくてしかたないのに、そこに混ざる青はこんなにも綺麗だ。


 息を呑むほど、素敵だ。

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