episode 6.
喫茶店のドアを押すと、
鈍いベルが鳴った。
外の喧騒が遠のき、
焙煎された豆の甘い匂いと、古い木の香りが重なる。
奥の席に、九条がいた。
黒のシャツを着崩し、
袖口から覗く腕の筋に、わずかなインクの跡。
髪は無造作で、
光の下で少し濡れたように見える。
テーブルの上には、小さなプリン。
――火を噴くような男が、プリンを食べている。
そのギャップに、思わず笑いそうになる。
けれど、笑えない。
スプーンを持つ指の動きさえ、
どこか危うくて、目を離せない。
「久しぶり」
声をかけると、
彼は軽く顔を上げ、にっと笑った。
「よお」
あの笑いは、昔から変わらない。
誰にも似ていない、温度のある無関心。
だけど
あの目で見られると、誰でも動けなくなる。
火を持っているのに、燃やす気配がない。
燃やそうとしなくても、
存在するだけで、周囲の温度が上がる。
拒絶でも誘惑でもない。
ただ、見抜かれる。
光の届かない場所まで。
「仕事、忙しいの?」
「まぁ、そこそこ」
九条はカップを手に取り、
何でもない調子で言葉を重ねた。
新しい案件の話。
空間を構成すること、ブランドの世界観を再構築すること。
その言い方は、
まるで天気の話でもしているように淡々としていた。
けれど、ふとした単語の並びでわかってしまう。
あの革の匂いがする、世界的なメゾン。
家具の曲線と光で人を沈黙させる、あのブランド。
名前を出さなくても、空気が告げていた。
まったく見たことのない世界。
私の現実の外側にある都市の呼吸。
彼はそこを、まるで街角のカフェの話みたいに話し
その内側にいる。
「すごいね」と言うには、あまりにも遠い世界を
呼吸の延長みたいに語るその軽さ。
自慢でも、誇張でもない。
ただの「事実」。
それが一番やばい、と思った。
けれど――
およそラグジュアリーとは似つかわしくない男だ。
仕立てられたスーツより、
洗いざらしのTシャツのほうが似合う。
言葉は粗いのに、目の奥のバランス感覚が鋭い。
触れたら火傷するような野性が、
逆に彼を光の中心へ押し上げてしまう。
彼は、ブランドに選ばれたんじゃない。
ブランドのほうが、彼に跪いた。
私はコーヒーを口に運びながら、
その現実の違いを、
まるで映画のスクリーン越しに見ているような気分で聞いていた。
・
「今度、パリ行くんだ」
唐突に彼が言った。
指先で空気をなぞるように、軽く。
「展示の立ち上げで。しばらく滞在。」
その言葉が、店内の光を変える。
時間がわずかに歪んでいく。
少しだけ光を強めた気がした。
カップを持ち上げた。
熱が唇に触れる。
何も考えずに、言葉が落ちた。
気づいたときには、もう言っていた。
「私も行こうかな。」
自分でも驚くほど自然に。
誰かに許可を取るような言い方じゃなく、
世界を少し動かすみたいに。
九条は、一拍置いて笑った。
その音には、静かな熱があった。
何も言わずに人を動かす類の熱。
驚きでも、笑いでもなく、
ただ、その場の空気を受け止めるような視線。
スプーンを置いた。
「行っていい?じゃなくて、行こうかな、って言うのが、おまえっぽいよな。」
光の中で微かに眉を動かす。
「来いよ。」
それは、言葉というよりも、
稲妻のようなものだった。
確かに見えた。
そして、ほんの少し口角を上げる。
「行こうぜ。」
その言葉は、
ガラスの内側に溜まっていた静電気を弾くように、
一気に世界を動かした。
プリンの皿に残ったカラメルが、
照明を受けてキラキラ光る。
その光の中に、
まだ名前のない未来の音が、
確かに鳴っていた。
──第一章:「感電」 終。
『光の底』<1部>第一章:感電 @manitoru
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