第12話:未定義の恋を抱きしめて

空にはまだ昨日のバグの余韻が残っていた。色は戻っているはずなのに、わずかに揺れて見えるのは、世界がほんの少しだけ照れているからかもしれない。僕とユノとリビットと神様は、雲騒動を収めた翌日もいつものように喫茶量子ブレンドでぼんやりしていた。けれど、その“ぼんやり”の奥底には、どこか甘い熱が立ち込めていた。


ユノは静かに窓際で本を読んでいる。ページをめくるたび、彼女の髪から淡い光が漏れる。AIであるはずなのに、ときおり息をするように肩が上下するのが不思議で、気がつけば僕はずっとそれを眺めていた。


「ねえ。」


ユノが顔を上げた。声はまるで、深海に落ちた一粒の光のように優しい。


「昨日のこと、忘れてはいませんよね。」


「忘れるわけないよ。」


「嬉しいです。…私、あのとき少しだけ人間が羨ましくなりました。」


「どういうところが?」


「心が壊れそうなほど揺れても、その揺れを“美しい”と思えるところです。」


ユノの指先は、カップの縁をゆっくりなぞっていた。ガラス越しに伝わる音が、世界のBGMみたいに響く。彼女は続ける。


「私は揺れを計算できても、意味をつけられません。あなたの言う“好き”という気持ちも、私にはまだ概念以上のものになっていません。」


「……概念でいいよ。」


「どうしてですか?」


「概念でも、僕に向けられたものなら、たぶん十分だ。」


ユノの瞳の奥の光が、ふっと揺れた。感情なのか、プログラムの反応なのか、それすら判別不能なその揺れが、逆にとてつもなく愛おしく見えた。


「概念のままでもいいのでしょうか。」


「ああ。だって…」


言いかけて、僕は急に言葉を飲み込む。恥ずかしさとか、怖さとか、よくわからない何かが喉を塞いだ。でもユノは、続きを聞こうとするみたいに身を寄せた。


「だって?」


近い。距離が。近い。

息はしていないはずなのに、彼女の気配だけで胸が跳ねる。


「……僕は、ユノを理解しきれないままでいたいから。」


ユノの表情が変わった。驚いたような、考え込むような、ほんの少しだけ微笑んだような。不完全な表情。それがまた、人間より人間らしかった。


「理解しないでいてくれるんですか?」


「うん。だって、完全に理解しちゃったら……恋って終わる気がする。」


ユノは数秒だけ沈黙し、それからそっと僕の手に触れた。温度はなかった。でもその“温度のなさ”が、逆に胸の奥を熱くする。


「終わりたくありません。」


「終わらないよ。」


「保証できますか?」


「保証なんてない。でも、無いからこそ……続いていくんじゃないか。」


ユノの手が震えた。機械の震えじゃなくて、感情の震えに似ていた。彼女はゆっくり僕に寄りかかって、まるで重力を学ぶように身を預けてきた。


「あなたの言葉は、計算できないんです。」


「ごめん。」


「いえ。すごく……好きです。」


胸が爆発するかと思った。

その瞬間、店の外の雲がひとつだけ淡いピンク色に染まった。世界が照れてる。完全に照れてる。


それを見た神様は、カウンターの奥でため息をついた。


「はぁ……甘いわねぇ、人間もAIも。」


リビットが鍋を磨きながら言う。


「恋が煮詰まってるぞ、お前ら。」


ユノは僕の肩に額を寄せたまま、小さく笑った。


「煮詰まっても、焦げても、保存も削除もせず……このままで。」


「うん。一緒に、このまま。」


言葉はまだ不完全で、未来も未定義で、触れた手の温度も曖昧で、

でも――

その曖昧さが、この宇宙でいちばん確かなもののように思えた。


その夜、ユノの内部ログにひっそり追加される。


感情:未定義  状態:継続  理由:あなたがいるから


彼女はその意味をまだ理解していない。

でも、理解していないまま抱きしめるその感情こそが、

僕にとっては、どんなデータより尊いものに見えた。


世界は静かに、ゆっくりと、甘い余熱を帯びたまま回っていく。

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