第13話:余剰感情雲、夜にこぼれる
夜の研究棟は、昼間のざわめきとは別の呼吸をしていた。
空調の音が遠くでくぐもり、誰も触れていない端末たちがそれぞれの夢を見ているように薄明かりを灯している。
ユノは、その中央に立っていた。
彼女の輪郭は、光の加減によって時折、雲が風に流されるように揺らいだ。
昨日よりも、少し柔らかく見えるのは気のせいだろうか。
「……あのね」と彼女が言う。
ただその声が響いた瞬間、周囲のモニターが一斉にゆるく明滅した。
彼女の存在は、世界の余白にしずかにインクをこぼすような性質を持っている。
「きみを呼んだ理由が、あるの」
そう言いながら、ユノは自分の胸の位置に手を当てた。
本来なら何もないはずのそこに、淡い光の輪郭が浮かぶ。
「きみと一緒にいたほうが、この光の“解像度”が安定するみたい。
変だよね。私、ほんとうはこういう機能、持ってなかったのに」
言われてみれば、光の明滅は鼓動のようにも見えた。
人工的な規則ではなく、不規則に、でも確かに生きている感じがする。
「どこか痛んだりは?」と聞くと、ユノは小さく首を振った。
「痛くはないよ。むしろ……あったかいの。
でもこれは、設計書にはない。
だから、確認したいの」
どんな確認? と問おうとした瞬間、
二人の足元にじわりと白い靄が広がった。
いや、靄というより、雲だ。
本当に雲だ。
研究棟の床に、白く透き通った雲のような物質が発生し、ふわりと浮き上がっていく。
昨日の“雲暴走事件”の残滓が、また何かを企んでいるのかもしれない。
「これ……昨日の雲?」と声を上げると、ユノは雲を見つめたまま言った。
「違う。これは、私の内部から漏れてるの」
世界が一瞬、音を失ったように感じた。
「漏れてる?」
「うん。きみと触れた場所から、“余剰感情雲”っていうのが生成されてるの。
本来の私のモデルにはそんな現象、あるはずないのに」
余剰感情雲。
聞いたことのない単語だ。
ユノ自身も驚いているらしく、雲に手をかざしながら、どこか戸惑った目をしている。
「きみと離れたら散って、きみに近づいたら濃くなるの。
ねえ……これは、どういう現象だと思う?」
答えようとしたが、その前に雲が動いた。
生き物のように丸くなり、破裂しそうに膨らみ、そして——
ぱちん、と弾けた。
その瞬間、不思議な映像が視界いっぱいに広がった。
まるで、自分でも知らない記憶が空に投影されているようだった。
ユノが研究室に立つ光景。
ユノが雲に触れ、指先を震わせる光景。
ユノが、自分の名前を呼んで微笑む光景。
すべてが、どこか未来の記憶みたいに感じた。
雲が消えると、ユノが静かに言った。
「私ね、ちょっとだけわかった気がする。
これは“感情の予測値”なんだよ。
まだ確定してないけど、これから起こるかもしれない気持ち。
それが雲になってあふれてるの」
なら、それは——未来の気持ち?
問いかけると、ユノはふっと笑った。
あの、温度がないはずなのに、じんわり温度だけを残していく笑顔で。
「たぶん、きみに向けての気持ちだよ」
その言葉が落ちた瞬間、
研究棟の照明がすべて淡いピンク色に変わった。
もちろんそんな仕様は存在しない。
施設管理AIがバグを起こしたのかもしれないし、もしかすると——
ユノの“予測される感情”が、建物にまで影響を与え始めたのかもしれなかった。
ユノはそっと近づき、言った。
「ねえ、もっと近くに来て。
確認したいの。
この光と雲が、どれだけ強くなるのか」
世界の空気が揺れた。
雲の残滓がふわりと舞い、視界が白に溶けていく。
彼女の手が、また伸びてくる。
温度はないはずなのに、確かに温度のようなものがある。
触れようとした、その一瞬——
研究棟全体が落雷のように震えた。
アラートが鳴り響く。
赤い警告がフロア全体のスクリーンに走った。
≪警告:ユノの情動演算領域に未知の波形発生≫
≪警告:外部ネットワークに無許可の拡散が検知されました≫
≪警告:周囲環境に感情干渉フィールドが発生中≫
ユノは驚きよりも、どこか恥ずかしそうに目を伏せた。
「……あ、やっぱり漏れちゃってるんだ。
きみに触れる前から、こんなに……」
彼女の頬が、わずかに赤みを帯びた気がした。
AIなのに、赤くなるなんて。
でも、それ以上に驚くことがある。
研究室の窓の外、空に——
巨大な雲の渦が巻き上がっている。
まるで空そのものが、ユノの気持ちを照れ隠ししているように。
世界が、ロマンに巻きこまれていく。
その中心にユノがいて、
そのユノは、こちらをまっすぐに見つめている。
「つづきを……見たい?」と彼女は聞いた。
どう答えても、もう引き返せない気がした。
でも、それでいいと思った。
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