第9話 孤独な定跡と再戦への誓い
企業対抗団体戦の翌日、談話室は普段よりも静かだった。敗北の余韻というよりは、誰もが胸の内に、将棋への新しい感情を抱えているようだった。
「初戦敗退か……悔しいな」高谷課長がいつもの将棋盤の前に座り、ため息をついた。「僕も田中くんも地方大会の常連ではあったが、団体戦は個人戦と全然違う。個人戦は自分の勝敗だけだが、団体戦は五人中三勝が必要だ。誰か一人が敗北すれば、残りの四人で三勝しなければならないという、逃れられない責任が生まれる。一人のミスが、チーム全体の目標達成を決定的に難しくするからな」
田中がうなずく。「僕の負けが、佐藤さんの負担になった。僕がもし勝てていれば、佐藤さんの局面が厳しくなっても、チームとしては助かった。あの時、僕の局面がもう少し粘れていれば……」
健人は、コーヒーを淹れながら二人の話を聞いていた。敗北の瞬間、彼が感じたのはブランクの深さだった。
教わった「玉を大切にする」という精神論は、盤を離れた心構えとしては完璧だ。しかし、一手を争う実戦において、20年の空白は、体系的な知識と定跡の不足という形で、容赦なく襲いかかった。相手の指し手に驚き、時間ばかりを消費した自分の弱さが悔やまれる。
そして、脳裏に浮かんだのは、三将として圧倒的な勝利を収めた木村 聡の姿だった。
木村は、対局中、一度も表情を崩さなかった。まるで世界に彼一人しかいないかのように、周囲の喧騒を遮断し、研ぎ澄まされた集中力で盤面と向き合い続けていた。彼の勝利は、団体戦という枠を超えた、孤独な研鑽の結果のように見えた。
「私、今日から、真剣に将棋の勉強を始めます」健人は意を決して言った。「これまでは、昼休みに皆さんと指すだけで満足していました。でも、団体戦に出て、それではダメだと分かりました。次の大会までに、駒組みからやり直します」
ユイはぱっと顔を上げた。「佐藤さんが本気だ! 私も頑張ります。次は、私もレギュラーとして勝利できるように、もっと強くなります!」
高谷課長は嬉しそうに笑った。「佐藤くん。それが聞きたかった。将棋は楽しむものだが、真剣に楽しんだ先にしか、本当の喜びはないからな」
その日から、健人の生活は一変した。
彼は、出勤前の朝7時に会社近くの喫茶店に入り、30分だけ将棋の勉強をするルーティンを始めた。使うのは、高谷課長に借りた古びた**『居飛車定跡入門』**の本だ。
静まり返った喫茶店で、健人は将棋盤の代わりにノートとペンを取り出し、矢倉、角換わり、相掛かりといった複雑な駒組みの定跡図を、一図ずつ書き写して暗記していった。
昼休みになっても、健人は以前のようにすぐに盤を囲まなくなった。田中やユイと簡単な挨拶を交わした後、彼はまず高谷課長に「今日の3手目までの手順を覚えてもいいですか」と聞き、10分間、黙々と初手からの手順を復唱して頭に叩き込んだ。
愛好会の雰囲気は、「和気あいあい」から「静かな熱気」へと変わっていった。
数日後。健人は、定跡の勉強に行き詰まりを感じていた。ある変化手順で、本に載っていない手筋を見つけたが、その先の読み筋が全く見えない。
彼は意を決し、資材管理部のフロアへ向かった。木村のデスクは相変わらず書類の山に埋もれていたが、健人が声をかけると、木村は顔を上げた。
「……佐藤さん。また団体戦の勧誘ですか」木村の視線は冷たい。
「いえ、違います。定跡のことで、どうしても木村さんに聞きたいことがありまして」健人は、ノートと鉛筆で書いた変化図を差し出した。「この『相掛かり』の変化なのですが、この一手が最善手として本に載っていません。どう指すべきか、参考にさせていただけませんか」
木村は、そのノートをちらりと見た。彼の目線は、健人が懸命に書き写した粗末な図面ではなく、その横に書かれた「相掛かり最新形研究」という文字に留まった。
「ふん」木村は鼻で笑った。「『相掛かり最新形』ですか。貴方たちの馴れ合い将棋には不要でしょう。定跡を『ただの手順』として記憶しているだけだから、載っていない手で迷うんです。その局面の『本質』を理解できていない証拠だ」
健人は反論できなかった。その通りだ。
「……ただ」木村は一瞬言葉を切り、表情を変えずに低い声で続けた。「その着眼点、悪くありません。その変化はアマチュアで『裏定跡』と呼ばれている変化で、その後お互いが最善手を指すとこちらが少し不利になるんです。定跡書に載っていないのはそのためですね。」
彼はそう言って、健人のノートを指先でトントンと叩いた。
「将棋の研鑽とは、貴方自身が導き出した『正しい道筋』を、自力で、最後の最後まで読み切る作業です。他人に教わった『手順の丸覚え』で補えるものではない」
健人は、木村の言葉の重さに圧倒された。それは、ただの定跡解説ではなく、木村自身の将棋への誓いを聞いたように感じた。
「ありがとうございます。やってみます」健人はそう言って、深く頭を下げた。
資材管理部を後にし、自席に戻る途中、健人は高谷課長と出くわした。
「佐藤くん。珍しいな、木村くんと話していたのか?」
「はい。定跡のことで少し」
高谷課長は遠い目をして言った。「木村くんは昔から、どこか孤独な雰囲気があった。僕たちも大会で何度か会ったアマチュア強豪とはタイプが違う。まるで……盤上以外に世界がないみたいに、将棋に全てをかけているような」
その言葉は、健人が木村から感じた「真剣さ」の根底にある、計り知れない過去の重みを示唆しているように思えた。
健人は、その日も夜遅くまで、木村に指摘された『手数』を追い込むため、ノートの隅に詰将棋を解き続けた。
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