第8話 五人目の布石と熱狂の団体戦
団体戦への目標が決まった日から、昼休みの談話室は賑わいと焦りの両方に包まれた。五人目のメンバー探しは難航していた。
高谷課長が社内SNSで募集をかけたが、将棋経験者からの反応はゼロ。将棋のルールを知らないメンバーを、団体戦直前に加えるわけにはいかない。
「参ったな。あと一人、経験者が見つからないと、団体戦に出られない」高谷課長が頭を抱える。
「人事部に異動してきた人がいるかも?」「僕が経理部の隅から隅まで聞いてみます!」田中とユイがそれぞれ提案するが、有力な情報は得られない。
健人もまた、社内の休憩室などで将棋の話をしている人を探し回ったが、成果はなかった。孤独だった二十年間、彼は周囲に将棋を指す人がいないと思っていたのだ。
そんなある日の昼休み。健人は、自身の部署と資材管理部の間にある共有のコピー機スペースで、休憩を取っていた。そこに、資材管理部の木村 聡がやってきて、デスク横のロッカーの開け閉めをした。
一瞬の出来事だった。健人が目を向けた時、ロッカーの奥に、他の部署の人間なら見過ごすような、厚めの将棋の定跡書の背表紙が見えた。そして、その横から少しはみ出していたのは、ルーズリーフを束ねた分厚いノートだ。表紙には**「相掛かり最新形研究」**とだけ、細字で書かれていた。健人は、以前治さんの店で見た、アマチュアではほとんど手を出さない、高度で専門的なプロの自戦記の分野だと直感した。
「……将棋」
健人は、他の誰にも気づかれなかった、木村のひっそりとした、高度な趣味の証拠を見つけたのだ。
資材管理部。健人の部署の、すぐ隣のフロアだ。健人は急いで高谷課長に報告した。
「木村さん……? プロレベルの定跡研究を一人でやっているのか。噂では知っているが、あまり部署外の人と交流がない、無口な人だ。我々が常連の地方大会には出てきていない、盤に向かい続ける孤高の研鑽者ということか。まさか将棋経験者だったとはな。しかし佐藤くん、君のその観察力には驚くよ」高谷課長も驚きながらも感心した顔をする。
健人は、昼休みになると一人、資材管理部のフロアへ向かった。木村のデスクは、書類の山に埋もれていて、いかにも忙しそうだ。
健人は思い切って声をかけた。
「あの、木村さんでしょうか? 私、佐藤と申します。昼休み将棋愛好会の者なのですが……」
木村は顔を上げず、パソコンの画面を見たまま、冷たく言った。
「すいません、忙しいので。愛好会なら結構です」
健人は一度は引き下がったが、高谷課長からの任務、そしてユイさんの指導役という新しい役割を与えられた今の自分を思い、諦めきれなかった。
翌日も、翌々日も、健人は昼休みになると資材管理部を訪ねた。ただ一言、「団体戦のメンバーを探しています」とだけ伝えて、何も言わず去っていく。
三日目の昼休み。健人がフロアに入ると、木村が書類の山から顔を出し、ため息をついた。
「佐藤さん。貴方たちの愛好会のことは知っていますよ。談話室の前を通るたび、聞こえてきます。和気あいあいとした笑い声と、雑談。将棋の本質は、個人の盤上の戦いにあります。団体戦のように、他人に結果を委ねるのは、研鑽とは言えません。どうせ馴れ合いの昼休みの延長の遊びでしょう。真剣に取り組んでいる私に、迷惑をかけないでください」
健人は、木村の目に、真剣に将棋を指したいという強い思いが宿っているのを感じた。
「遊びなんかじゃありません」健人は、珍しく強い口調になった。「私たちは、真剣に将棋を指す居場所を会社に作りたくて、愛好会を作りました。私は二十年のブランクがあり、今は弱いです。それでも、皆で一緒に戦いたいのです。木村さんの力が、必要です」
木村は、健人の真っ直ぐな目に、しばらく言葉を失った。そして、書類の山から、小さな携帯用の将棋盤を取り出した。
「わかりました。……そこまで言うなら。ただし、勝つために指しますよ」
愛好会初の目標、企業対抗団体戦当日。五人目の木村を加えて、談話室メンバーは、会場である市内の公民館に集まった。
団体戦は、五人一組で戦い、勝利数の多いチームが勝ちとなる。 レギュラーメンバーは、高谷課長が主将、健人が副将、木村が三将、田中が四将、そしてユイが五将として、初めて正式な布陣で挑むことになった。
試合開始の挨拶が終わり、会場の熱気が一気に高まる中、健人の対局が始まった。相手は、いかにも強そうな、年配の男性社員だ。
健人は、序盤から教わった「玉を大切にする」堅実な指し方を貫いた。しかし、相手の巧みな攻めに押され、徐々に苦しくなる。ブランクの不安が頭をよぎり、手が震えそうになったその時、盤の向こう側、ユイと田中の姿が目に入った。彼らは、息を殺し、全身で健人の盤面を真剣に見守っていた。その静かな視線が、健人の心を不思議なほど落ち着かせた。声はない。しかし、その静かな連帯感が、健人の背中を押した。
結果は、高谷課長と木村が勝利し、健人、田中、ユイが敗北。愛好会は、2勝3敗で惜しくも初戦敗退となった。
しかし、負けたにも関わらず、愛好会メンバーの表情は明るかった。特に木村は、初めて口角を上げ、
「……悪くない。次は勝ちます」
と呟いた。
健人は、孤独な趣味が「仲間と一緒に戦う喜び」に変わったことを実感し、胸が熱くなった。
「木村さん、田中さん、課長、藤沢さん……ありがとうございました」
健人の将棋人生の、新しい一歩が、今、確かに始まったのだ。
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