断章 汚れは許さない
雨上がりの午後。
屋敷の裏庭には、まだあちこちにぬかるみが残っていた。
そんな中、真っ白な怪鳥ルミは、珍しく興奮していた。まだ湿っている屋敷の庭で、ぱたぱたとはしゃぎ回っていたのだ。
雨上がりの森の匂い、葉から滴る雫。それらに誘われ、つい調子に乗って飛び回り──着地した場所が悪かった。
バシャンッ
「ピッ!?」
泥水を跳ね上げ、ルミは頭から泥の海へ突っ込んでしまった。
自慢の真珠色の羽は茶色く汚れ、濡れて重くなり、見るも無惨な姿になった。ルミは慌てて這い出し、プルプルと身震いしたが、汚れは落ちない。
しょんぼりと肩(翼)を落とし、トボトボとテラスへ戻ってきた時だった。
そこには、仁王立ちする、塔のように高い黒い影があった。
「…………」
コルヴァンだ。 彼は腕を組み、泥だらけの毛玉と化したルミを、無言で見下ろしていた。
ルミは声も出せずに凍りついた。逃げようにも、泥で羽が重くて飛べない。コルヴァンの金色の瞳は、ゴミを見るような冷徹さと、静かな威圧感を放っている。言葉はない。ただ、その「圧」だけで、ルミは蛇に睨まれた蛙のように縮こまった。
「……汚らしい」
長い沈黙の後、低く吐き捨てられた言葉。次の瞬間、コルヴァンの手が素早く伸びた。
「ピャッ!?」
抵抗する間もなく、ルミの首根っこが掴まれる。 そのまま宙ぶらりんにされ、有無を言わさず屋敷の中──浴室へと連行された。
◆
大理石の洗面台に、ぬるま湯が張られる。コルヴァンはそこにルミを浸すと、スポンジを手に取り、無表情で洗い始めた。
「動くな」
「ピィ……」
コルヴァンの手つきは、優しくはない。 だが、乱暴でもなかった。汚れを許さない潔癖さと執着がある。
茶色い泥水が流れ落ち、その下から本来の白い羽が現れる。その様子を眺めながら、コルヴァンの瞳がふと、遠くを見るように細められた。
──嗚呼…以前にも、こんなことがあった。
彼の脳裏に蘇るのは、鳥の姿ではない。もっと脆く、泥と血にまみれたひとりの人間の少女の姿だ。
かつて、サクは毎日ボロボロになってこの屋敷へ来た。 村の者たちに突き飛ばされ、泥水を啜らされ、傷だらけになって。
雨に打たれ、震えながら玄関に立つ彼女は、今のルミよりもずっと汚らしく、そして哀れだった。
『……汚らしい』
そう悪態をつきながら、彼は少女を風呂場へ引きずり込み、その身体を洗ったものだ。泥を落とし、血を拭い、傷を塞ぐ。薄汚れた皮を剥ぐように清めていくと、その下から現れるのは、透き通るような白い肌と、琥珀色の瞳だった。
自分が手をかければかけるほど、彼女は美しくなった。汚されたものを拾い上げ、自分の色(魔力)で洗い清め、完璧に我がものとする。 その背徳的な充足感。
「…………」
コルヴァンの手が、無意識に熱を帯びる。ルミの背中を撫でる指先が、かつてサクの背骨をなぞった時の感触を追憶していた。 震える小さな身体。縋るような体温。
コルヴァンの殺気が消え、手つきが妙に艶かしくなった。一方で何も感じ取っていない鈍感なルミは、お湯の中で気持ちよさそうに脱力していた。泥はすっかり落ち、濡れそぼった羽がペタリと肌に張り付いている。
「……ふん。ようやく見られる姿になったな」
コルヴァンは我に返り、ルミを引き上げてタオルで包んだ。魔術で風を起こし、一瞬で乾かしてやる。ふわふわの、雪のような白さが戻った。
「コルヴァンさん!ルミを見ていませんか!」
そこへ、サクが慌てて浴室へ飛び込んできた。 庭にルミがいないことに気づき、探していたのだ。
しかし、その姿を見てコルヴァンの美しい顔が引き攣った。手にしていたタオルをぽとりと床に落とす。
サクは引きずるように、嫌がるノクスを抱いて浴室にやってきていた。そしてその1人と1匹の汚れ具合といったら、ルミの比ではなかった。
ノクスは全身真っ黒なのでわかりにくいが、大量に滴る泥水がその汚しさを如実に語っていた。美しい黒い毛並みはベタついている。
サクはさらに無惨で酷かった。黒いドレスも、白い頬も、茶色い泥で斑点模様になっている。艶やかな茶髪はぐっしょりと泥に濡れて落ち葉をあちこちにつけていた。
「………」
珍しく思考停止しているコルヴァンをみて、サクは泥だらけの顔を不思議そうに傾けたが、コルヴァンの指の上でちょこんとこちらを見ているルミを見つけて嬉しそうに笑った。
「ああ、ルミ!ここにいたの」
そしてあろうことか、その泥だらけの指をせっかく綺麗にしたルミに伸ばすのだからたまったものではない。
コルヴァンは素早くその指がルミに触れる前に掴み取り、「出ていけ」とルミに短く告げた。ルミはコルヴァンの一瞬で溢れ出た殺気に怯え、考える暇もなくびゅんと浴室から飛び出した。
バン!と浴槽の扉を閉め、愚かな主と愚息を閉じ込めると、
「……ご説明いただけますかな。主よ」
低く、地を這うような声で問いかけた。
コルヴァンの怒りに気付いたサクは冷や汗をかいた。ノクスはサクの足元に縮こまり始める。
「えっと、その……ノクスと遊んでいたんです。そしたら水たまりで転んじゃって……そこから水遊びが始まっちゃって……」
サクが引きつった笑顔で言い訳をする。しかし、コルヴァンの眉間の皺は深くなるばかりだ。
「……嘆かわしい」
彼は吐き捨てるように言った。
「野生の獣ならいざ知らず。……この屋敷の主たる者が、泥遊びでその身を汚すとは」
彼は長い指をパチン、と鳴らした。
風が巻き起こり、ノクスの身体に纏わりついていた泥が一瞬で弾き飛ばされた。洗浄の魔術だ。ノクスは瞬きする間に清潔感と艶を取り戻した。
「ノクス。お前は部屋に戻り頭を冷やしていろ」
コルヴァンに冷たく一瞥され、ノクスは殺気を察して、慌てて扉を押し開けバビュンと逃げ去った。扉は再び閉まる。残されたのは、まだ泥だらけのサク一人。
「あ、あの……わたしも、魔法で」
サクが期待を込めてコルヴァンを見上げる。指パッチン一つで綺麗にしてもらえるなら、それが一番だ。
だが、コルヴァンは冷酷に微笑んだ。
「いいえ」
彼は一歩、サクに近づく。
「ちょうど、思い出していたところだ。昔…その身を清めてやったと」
長い腕を伸ばし、サクの泥だらけのドレスに指をかける。
「毎日毎日毎日…清めても清めてもお前は泥と傷をつけて戻ってきたな」
ビリリ、と布が裂ける音。サクは冷や汗をかく。コルヴァンは冷たく微笑んでいるが、ドレスのボタンを外すことすらできないほど苛立っている。
「手元に置き…どこぞで泥も傷もつけることはなくなり…そういった苦労はなくなったと感慨深く思っていたところだった」
「け、怪我はしていませんよ?」
「口答えをするな」
ドレスを落とされ、腕をひっつかまれてバスタブに沈められた。ルミと違ってしおらしいところひとつ見せないサクに、コルヴァンは我慢がならなくなってきた。何十年と躾けてきたサクより、あの小さな怪鳥のほうが物分かりが良いとはどういうことだ。
「うぶっ」
「甘やかし過ぎたか?わたくしが清めたその身を、許可なく汚すことは許さんと、口にしなければ分からないか?未だ謝罪の言葉一つ聞こえないのはわたくしが聞き逃しているからか?」
笑顔を消してこめかみに青筋をたてたコルヴァンが、バスタブに沈めたサクを覆うように覗き込み、追い立てるように告げると、サクはいよいよ真っ青になった。
「ご。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいっ!」
ようやく事態に気付いたサクだったが、コルヴァンはサクがどんなに謝罪をしようと、久々に存分に仕置きをしてやろうと決めていた。
涙ぐんで謝り始めるサクを見つめ、満足そうに、けれど残酷な笑みを浮かべた。
「謝罪は結構です。代わりに、愛らしい囀りを聴かせてくれますかな」
◆
浴室の扉の前では、たまに漏れ聞こえてくるサクの小さな悲鳴を心配そうに聞いているルミと、その横で満足そうにルミの羽を啄むノクスがいた。
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