断章 不快な陽だまり


その猫が、晴れた日の屋敷の庭先に現れるようになったのは、いつからだっただろうか。


陽だまりの中で丸くなる、ありふれた三毛猫。

サクは、その小さな訪問者をたいそう可愛がり、台所からパン屑を少しだけ持ち出して、会いに行くのをささやかな楽しみにしていた。


「…主よ。また、あの汚れた獣の匂いを付けましたな」


サクが部屋に戻るたび、コルヴァンは心底嫌そうな顔で眉をひそめた。

そしてサクのドレスについた数本の猫の毛を、まるで呪いでも祓うかのように、指を一つ鳴らし完璧に消し去るのだ。


あからさまに不快を示す態度に、サクはおそるおそる尋ねた。


「…やめろって…言わないんですか…?」


すると、コルヴァンはうっすらと、しかし、目の笑っていない美しい笑みを浮かべた。


「家臣であるわたくしが、主の束の間の楽しみを奪うなど…まさかまさか、そんなことは」


率直に言って白々しいと感じられた。

その言葉にサクはかえって嫌な予感を覚えたが、それ以上何も言われないことを幸いとし、猫との交流を続けた。

もともと動物が好きで懐かれやすい彼女にとってその猫の存在は、この閉ざされた楽園の中の唯一の「普通」で、温かい繋がりだった。


その日、サクはいつものようにパン屑を手に猫が待つ陽だまりへと向かった。

しかし、猫の様子がおかしかった。


サクの姿を認めるなり、全身の毛を逆立て、「フーッ!」と激しく威嚇してきたのだ。


「どうしたの?」


驚いてそっと手を伸ばした、その瞬間。

鋭い爪が、サクの手の甲を深く切り裂いた。迸る鮮血。


猫は、サクが聞いたこともないような甲高い悲鳴を上げると、脱兎のごとく駆け出し、森の奥へと消えていった。


サクは、ショックでその場に立ち尽くす。なぜ? あんなに懐いてくれていたのに。


手の甲から滴る血の赤さと心の痛みにしょんぼりと肩を落とす。とぼとぼと、屋敷へ戻った。


すると屋敷の扉の前で腕を組み、コルヴァンが待っていた。


その唇には、くつくつと、楽しげな笑みが浮かんでいる。


「おや、主。随分とお早いお帰りで」


彼はサクの血が滲む手を取り、その傷口を一瞥した。


「…動物は、人間なぞより、ずっと鋭敏な生き物ですからな。気配や匂いを敏感に察知する」


コルヴァンがサクの手をそっと握る。


「あの獣はきっと、あなたが恐ろしかったのでしょう。その身にまとわりつく、わたくしの魔力の匂いが───」


サクは、ハッとして自分の手を見つめた。


今しがた引っかかれたはずの傷跡は、血の痕跡すらなく、綺麗さっぱり消えている。自分の身体が、既にコルヴァンの魔力によって治癒される体質になっているのだ。説明されなくても分かった。


サクの背筋を、氷の指がなぞるような冷たい悪寒が走った。


「あなたのその美しい身体に傷をつけたこと、知性の低い獣であろうと万死に値する所業ですが…」


コルヴァンは、心から楽しそうに言葉を続ける。


「此度は、よしとしましょう。

あなたも、良い勉強になったでしょうからな。

あなたという存在が、もはや、ああいった陽だまりの中の生き物とは、相容れないのだと」


サクは何も言えずに、ただ眉を下げてコルヴァンを見つめた。よほどサクが猫に構わなくなるのが嬉しいらしい。その純粋な喜色が、彼の完璧な貌から隠しきれずに溢れている。


「さあ」


コルヴァンは、サクの肩を優しく抱き寄せた。


「あのような薄情な獣のことなどお忘れなさい。そして、日々あなただけに忠誠を誓いご奉仕する、この健気な家臣に褒美をください、主よ…」


心にもないことをつらつらと話すコルヴァン。

サクは目を伏せる。猫に会えなくなるのは、確かにショックだった。胸の奥が、ちくりと痛む。

けれど、彼の腕の中でこれほどまでに上機嫌なコルヴァンの体温を感じていると(本当にここまで機嫌が良さそうなのは珍しい)、まあ…いいか…という。そんな気持ちになってしまう自分もいた。


サクは小さくため息をつくと、コルヴァンの胸に頬を寄せた。

陽だまりの温かさを失った代わりに、この氷のように冷たい腕の中の安らぎが、また少しだけ、深くなったような気がした。


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