5章 手を握って

ある冷えた晩だった。

その日のコルヴァンは珍しく、少し早くサクを客室へ追いやった。


「今夜は冷える。もう眠れ」


低い声は冷たく、いつも以上に近寄りがたい。今夜のコルヴァンは、どこか凍てつくような空気を纏っていた。


サクは胸に小さな不安を抱えながら、扉を閉めた。そのまま寝具の中で丸まって目を閉じたけれど、眠れなかった。屋敷の静けさが、かえって耳を刺すようだった。


サクはそっと寝所を抜け出してしまう。


長い回廊を歩いていると、足元に鈍い光が散っていることに気付く。


「え…」


壊れた燭台。コルヴァンがよく持ち歩いているものだ。サクは息をのんだ。


その近くの扉が、わずかに開いている。普段は固く閉ざされているはずの部屋。

胸がざわめく。サクは息を潜め、扉を押し開けた。


重厚なカーテンが窓を覆い、燭火が壁に影を揺らしている。床には黒い羽が散り、空気は魔力の匂いで重く満ちていた。


部屋の片隅に、大きな塊…否、コルヴァンが膝をついている。

その背から異形の影が滲み出していた。指先はかぎ爪のように歪み、床を削っている。頬に走る黒い紋様が、血管のように脈打ち、燭火を吸い込むような光を放っていた。その姿は人でも獣でもなく、魔そのものだった。


絶句して動けないサクを、血走った金色の瞳が射抜く。


「来るな…小娘」


低く、殺気を孕んだ声が響く。


「忘れろ…そして、このことを主に話せば......舌を引き抜いてやる」


その言葉に、血が凍るようだった。サクの指が震え、喉が詰まる。それでも、視線は彼の苦しげな顔に釘付けになっていた。

怖い。逃げ出したい。でも、放っておけない。足がすくむ。それでも、一歩を踏み出した。


「わ。わたしに…何かできることはありますか」


声は震えていた。コルヴァンの瞳が、かすかに揺れる。しかし、明確な拒絶の色をすぐに浮かべた。


「……でていけ」


荒い息の合間に、唸るような、吐き捨てるような声。サクは唇を噛み、立ち尽くす。そのとき、コルヴァンの体が再び痙攣し、低い唸りが漏れた。羽が散り、爪が床を削る。


咄嗟にサクは駆け寄り、背中に手を添えた。熱い。魔力のざわめきが肌を刺す。サクは震える指を伸ばし、その背を摩った。コルヴァンの身体がびく、と震えた。


「コルヴァンさん…!」


サクは遠い遠い昔、熱で寝込んだ時に母がやってくれたことを思い出し、その小さな手でコルヴァンの背を必死に撫でた。指に、ガサリと何かが触れる。衣服の感触ではない。黒い羽だった。気がつけば、びきびきと苦しげに蠢く羽が、彼の背からのびていた。

恐ろしいと思った。コルヴァンのことが大好きでも、正体がわからない、ひとではない彼のことが恐ろしいと。

思わず顔を引き攣らせ、手を離しかける。


「───ぐ、ぁ…」


けれど、コルヴァンの白い顔が苦痛に歪んだ。うめき声が漏れる。それを見て、聞いた瞬間、サクは先ほどまでの恐怖がどうでも良くなってしまった。


「だいじょうぶ」


サクはコルヴァンを抱きしめた。


「大丈夫です。きっと、大丈夫だから…」


母が優しく、頭を撫でて言ってくれたのを思い出す。コルヴァンはぼんやりと、サクをみつめた。


「.....手、を.....」


魘されるような声が、闇に溶けた。サクがはっとして顔を上げる。


「手…?こうですか…?」


サクは両手で、その冷たい手を握った。指先が触れた瞬間、魔力の脈動が血を逆流させるように走る。びりびりと指先が痛くなる。かぎ爪が手のひらに食い込み、僅かに血が滲む。サクは痛みに眉を寄せ、それでも、離さなかった。しばらく握っていると、荒い息が頬にかかった。


コルヴァンの体がずるりと崩れ、サクに寄り掛かる。


「えっ…!あっ、」


慌てて支えながら、ずるずると床に座り込む。コルヴァンの顔が、サクの胸に埋まった。そのまま、動かない。荒い息が、次第に静かになっていく。サクは震える腕で、彼を抱き留めていた。


恐怖も、どうでもよくなっていた。胸を満たすのはただ、彼の助けになりたいという思いだけ。



夜明け頃。


少し落ち着いたのか、微かな呼吸音をたて気絶するコルヴァンにブランケットをかけて休ませ、サクは客室に戻った。


扉を閉めた瞬間、背後から柔らかな声がした。


「コルヴァンを、診てくれてありがとう」


振り向くと、そこにセレスが立っていた。

サクは口ごもる。主に言うなと言われていたから。けれど、セレスは微笑んでいた。


「年に一度、魔力が不安定になるの。いつもは私が魔力を与えていたけれど…今夜はあなたが落ち着かせてくれた」


「そんな…私、特別なことは、なにもできていません」


サクは俯いた。


「手を握っていてくれたでしょう。それで十分なんです」


セレスの瞳は、夜の灯火のように優しかった。


「私たちは…あなたにどれだけ救われていることでしょう。これからもよろしくね」



翌朝、サクは恐る恐るサロンへ向かった。


そこには、普段通りに髪の乱れひとつなく美しい家臣…コルヴァンが、一人窓の外を眺めて控えていた。

昨夜のあの、異形の姿で苦しんでいた彼の面影は、どこへいったのか。黒く鋭いかぎ爪も、背中を突き破って蠢いていた漆黒の翼もない。人の形をしている。そういうことで、今朝のサロンの空気はいつも通り静かだった。


──夢?いや、そんなはずは…


あまりにも普段通りな姿に、昨晩のできごとは夢だったのではないかと疑いたくなる。しかし手のひらには、昨晩のコルヴァンにつけられた微かな傷がまだ残っている。


サクはどう声をかけるべきか迷い、結局は緊張でこわばったままの唇を開く。


「おはようございます…」


コルヴァンはその声に、ゆっくりと視線を向けた。その金色の瞳は、いつも通りの冷たさを湛えている。


「…何を廊下に突っ立っている」


コルヴァンが、静かに言った。その声は平坦で、何の感情も読み取れない。


「さっさと入れ」

「あ…は、はいっ…」


サクは、混乱した。


──怒ってない…? 昨日のこと、忘れたの…?


いつも通りの対応。その「何事もなさ」に、サクは、ほんの少しだけ、安堵したのかもしれない。そしてその安堵が、彼女の口を滑らせた。


「あ、あの…!」


彼女は、純粋な心配から、尋ねてしまった。


「もう、おからだ、大丈夫ですか…?」


ピシッ。

サロンの空気が、凍りついた。 コルヴァンの、その完璧な美貌の片頬がひくりと痙攣した。 ゆっくりと彼がサクを見る。その金色の瞳が一瞬にして、絶対零度の殺意を帯びた鋭い光に変わった。


──あっ、覚えてるんだ。そして、聞いてはいけなかったんだ…!


サクは瞬時に悟った。彼の弱みに、触れられたくないものに土足で踏み込んでしまった。思い出させてしまった。本能的にまずいと思った。物騒な苛立ちをみせたコルヴァンに対しての、生存本能だったのかもしれない。


「あ…っ! え、えっと…!」


サクは慌て始めた。本能的な恐怖が、彼女の全身を支配する。


「あっ、今朝はも、もう村へ戻らなきゃ! 今日もありがとうございました、失礼します!」


サクは踵を返し、転がるようにしてサロンを飛び出し、玄関ホールを抜けて屋敷から逃げ出していった。


「……」


コルヴァンは動かなかった。 ただ、その狼狽えて逃げていく哀れで小さな背中を。何も言わずに、しかしその昏い瞳の奥に、先ほどの殺意とは違う。どこか熱を宿した視線で見送っていた。



その日を境に、二人の日常はさらに奇妙なものへと変わったようだった。

コルヴァンは、あの晩の出来事にも、サクの失言にも、一言も触れなかった。だが彼の眼が常に、これまでよりも執拗にサクを追うようになったのだ。


サクがサロンで紅茶を飲めば、その飲み方までじっと見ている。飲み下す喉の動きまで視線で追われているようだった。

サクが庭で花を摘めば、その手つきを窓から凝視している。

サクが村での傷を隠そうとすれば、彼は音もなく近づき、「腕を見せろ」 と低い声で告げて問答無用でその腕を掴み傷口を「検分」する。


それは、もはや世話焼きなどと言う言葉で済ませられることではなかった。管理に近い。


サクは、その不機嫌なようで、しかし決して自分を突き放しはしない執拗な視線と管理に、混乱していたが。


──…嫌われては、いない、のかな…?なんだかものすごく見られてるだけ。なら、良いのかな?


と、慣れてからはあまり気にすることはなくなっていった。



3年の月日が流れた。


サクは相変わらず、村では奴隷。朝から夕刻まで体中を傷だらけにして働き、冷たい視線と罵倒を浴びていた。


けれどその身なりには、かつてのような汚れや乱れが少なくなっていた。ボロ布の服は洗い立ての布地に、ほつれのない縫い目。

髪は肩で揃えられ、日々丁寧に梳かれているためさらさらと風に靡いた。顔色が良くなり、年相応の愛らしさが容姿に表れていた。


村人たちはそんなサクを遠巻きに見て、ひそひそと囁く。

森の不気味な屋敷へ通っていることも噂になっており、不気味がる者が多かった。


またゴミのように扱われることは相変わらずだが、村の男からの視線は妙に粘ついたものが多くなってきていた。


サクは全てに気づかぬふりをして、今日も夕刻に花を摘む。夕刻に訪れる屋敷…コルヴァンと、セレスティアに贈るための花。


夕刻、森の奥の屋敷へと向かう道を歩いていると、風がゆるく吹いて頬を撫でる。サクはふと微笑んだ。


──この日々が、ずっと続けばいいのに。


そう思って、屋敷への道を進んだ。



屋敷の門が音もなく開く。

サクが花を抱えて中へ入ると、玄関ホールにはコルヴァンが立っていた。


「こんばんは、コルヴァンさん」


サクは笑顔でコルヴァンを見上げ、両手で花を差し出す。

コルヴァンは眼を細め、無言でそれを受け取る。花を受け取る手つきは相変わらず丁寧だ。その視線には、もはや以前のような敵意はなく、突き放すような冷たさもなかった。

代わりに、慈しむというには少々物騒な昏い光が、熱が、瞳の奥に灯っていた。


ホールでダンスを踊り、真夜中に介抱し、たびたびセレスの思い出を共有してからというもの、彼のサクへの態度は執拗な管理以外にも変わりがあった。態度が、距離が、ますます親密になってきていた。


例えば、コルヴァンは客室までサクの手をとって優しく引くようになった。以前は「入れ」と言うなり長い髪と袖を翻してとっとと歩いていったのに。またサクの髪を念入りに梳かすようになったし、少しの傷でも座らせ治療を始めた。

この頃にはもう、サクが屋敷に来た日に村へ帰れることはなかった。雷雨がなくても、コルヴァンは客室を用意し、そこでサクを寝かしつけた。


今回も、コルヴァンは花を受け取った後当然のようにサクの手を取った。その手は、氷のように冷たい。けれどサクの胸の奥をじんわりと温めた。まるで、羽に包まれるような感覚だった。サクは彼に手を握られているとなぜか安心した。


──不思議だなあ。こんなに綺麗な人に触れられて、安心するだなんて。


サクは歩きながら、絵画から出てきたように美しいコルヴァンの横顔を眺めた。

廊下を歩く間も、コルヴァンはサクの手を離さなかった。

客間に入ると、サクはコルヴァンにエスコートされてソファに腰を下ろした。


コルヴァンは紅茶をテーブルに置くと、サクの髪に触れた。さらさらと指を落ちる細い毛を見つめ、少し砂っぽいことに気付いてため息を吐く。


「後で梳いてやる」


サクももう慣れたもので、「ありがとうございます」と素直に返事をした。


コルヴァンは髪の毛を梳くのが本当に好きなんだなぁと思う。


サクが暖かい紅茶で指先を温めながらほうと息を吐いていると、コルヴァンはその冷たい指で温度を確認するようにサクの頬に触れた。

コルヴァンが隣に来てじっと見つめてくるのも、ぺたぺたと触れてくるのも普段のことなので、サクはあまり気にせずにカップに口をつけていた。しかし、


「今宵は、随分と冷えているな」


そう言って、コルヴァンが長い腕をサクの肩にかけ、軽く引いて抱き寄せてきた。これにはさすがに驚きカップをとり落としそうになる。コルヴァンがサクの手ごとカップを包み込み支えた。身を固くするサクに、コルヴァンは静かに妖艶な笑みを浮かべるだけだった。


取り上げたカップをゆっくりとテーブルに置く。そしてサクの頬を両手で包み、自分の方を向かせた。

サクは戸惑って、まっすぐこちらを見下ろすコルヴァンの金色の双眼を見上げる。

底知れない彼のことを、人間ではない彼のことを、少し恐ろしいとも思う。

けれどなぜか、逃げ出すことができなかった。そもそも逃げ出したいとも思わなかった。

この屋敷だけが、唯ーサクのことを認めてくれるのだ。そしてコルヴァンは、死んだ母親以外で初めてサクに優しく触れてくれた存在だった。

サクはコルヴァンとセレスが大好きだった。今後、何があってもこの二人を嫌いになることはないだろうと思っている。


ふとした瞬間に手を離される。ぼんやりと顔をあげると、いつの間にか食卓には温かいスープと焼きたてのパン、甘そうな果実が並んでいた。普段通り促されて、サクはスプーンを手に取りー口。幸せそうに目を細める。


「.....本当に、おいしいです」

「当然だ」

「おいしいだけじゃなくて、なんだろう。心があったかくなるような....?」


サクはスープを口にしながら考え込む。

どうにかこの素晴らしさをコルヴァンに伝えたかったが、彼はサクの感想に興味はなさそうだった。


「とっとと食ってしまえ」


大きくしなやかな指でパンをちぎり、やや乱雑にサクの口にねじ込む。

サクは大人しくパンを咀嚼しながら、自然と銀のお皿にのっている果実...黒いいちじくを見つめた。


「それは最後だ」


コルヴァンが耳元で囁いた。サクはびくっと肩を竦ませる。


コルヴァンの指が、いちじくを摘まんで見せつけるように持ち上げた。


「そう物欲しそうな顔をせずとも」


コルヴァンの形の良い唇が弧を描く。


「それを残さず食べ終えたら…」


サクは頬を染めて、コルヴァンの指先と、黒い紅の引かれた形の良い唇から視線が離せない。


「また、食べさせてやる」


妖精に生気を吸われてから。たびたび食事の時に、コルヴァンは果実を手ずからサク与えた。あの時と同じ方法で。自ら口に含む。そしてサクへゆっくりと口付ける───


倒錯している。異常だ。恥ずかしいはずなのに、こんなのおかしいと思うのに、コルヴァンがそうして与えてくれる果実は、どんなごちそうよりも美味だと感じられてしまう。


サクはごくんと唾を飲み込んだ。今晩も、コルヴァンは口移しをしてくれる。サクの羞恥と期待に潤んだ瞳を、コルヴァンは満足そうに見つめていた。




その夜、サクはベッドの中で目を閉じていた。ふと、耳元に、優しい声が響く。


「サク.....今日も、ありがとう」

「……セレス様.....?」


サクは目をこすりながら、目を開けた。枕に頭を預けたまま、ぼんやりと視線で声の主を探す。けれど、部屋には誰もいない。


「明日も、きっと来てね.....」


その声は、どこか遠く、かすれていた。最近、セレスティアあまり姿を見せてくれない。体調が悪いのだろうか。それでも、屋敷の中にいる気配はなんとなく感じる。コルヴァンも、「主は花を喜んでいた」と教えてくれる。


だから、サクは明日も花を摘んでまた来ようと思った。


「セレス様。また、お話したいな.....」


サクはそう呟いて、まどろみに沈んでいった。



屋敷で夜を明かした早朝に村へ戻るのが恒例となっている。コルヴァンに見送られて、サクは元気に村へ戻っていった。


その日の村の空気は、どこか重たかった。皆、普段通りなのになぜだろう、とサクは思った。皆に冷たい視線を送られたり、罵倒と暴力を浴びたりするのは変わらないが...なんだか、嫌な感じがする。井戸端で水を汲んでいると、背後から視線を感じる。


振り返ると、村の男たちがこちらを見ていた。目が合うと、にやにや笑って、互いに何かを囁き合う。

サクは視線を逸らし、バケツを抱えて足早にその場を離れた。その日、サクに用事を言いつける村人がいつもより少し多かった。


だからサクが解放されたのは、夕刻ではなくとっくに月が上り夜空に星が輝く頃だった。これでは今夜は花は摘めない。肩を落とすが、それでも屋敷へ向かった。花がなくてもいい、とコルヴァンが言ってくれたからである。


けれど、森の入り口で足が止まった。いつもは誰もいないはずの林道。暗がりの中に、男たちが道を塞ぐように立っていた。

サクはなんだか嫌な予感がして、急に心細くなって、男たちを見上げていた。男たちは、明らかに自分を見て目の色を変えた。


思えば、今日だけではなかった。村の男たちに、妙な視線を投げかけられるのは。居心地が悪くて、恐ろしくて、サクはなるべく彼らに近づかないようにしていたのだ。


震えるサクを見た男たちが、下卑た笑い声をあげながらじりじりと距離を詰めてくる。

反射的に、サクは身を翻して逃げようとした。けれど、少し遅かった。


細枝のような腕を掴まれた。逃げようとしたことが勘に障ったのか、男の一人がサクの頭を挙で殴った。


サクは軽々と吹っ飛んで地面に倒れこんだ。衝撃の後に気持ち悪いくらいの眩暈がして、気が付いたら目の前に男達の土に汚れた脚があった。地に倒れたままのサクの華奢な身体に、汗ばんだ手が這う。サクは声もあげられなかった。のどが張り付いてしまったようだった。


殴られたことは何度もあったが、今まで意図的に肌に触れられたことはなかった。…コルヴァン以外の誰かに。


あまりのおぞましさと、この後自分がどうなるのか...想像がついてしまったサクは、そのまま意識を闇の中に落とした。


意識を失う直前、氷のように冷たい指先と低く鼓膜を震わせる声、鋭い金色の瞳を現実逃避のように思い出した。



サクが屋敷を訪れなくなって、1週間が経った。


これまでも2日、3日空くことはままあった。

その時いったいどう過ごしていたのか、コルヴァンはうまく思い出せなかった。


小娘が来ない日数を数える。

今夜も閉じて、だれも迎え入れない門を見つめる。

萎びていく花を見つめる。


コルヴァンは書斎の出窓に置かれた花瓶の花を見つめた。サクが持ち込んだ、色とりどりの花。誰かに教えてもらった花畑から摘んできたとかなんとか言っていた...。

花瓶の花は、萎れて色褪せていた。彼の主、セレスの部屋に飾る花も、同じような状態だろう。


枯れた花は醜い。景観を損なう。取り換えなければ。そう思うのに、なぜか捨てられない。コルヴァンの袖から滑り落ちたのか、黒い羽が1枚空を舞った。


「…あの小娘がいなければ…気にも留めなかったのに」


そう呟いて、指先で羽をピンと弾く。セレスは花が好きだが、ここ数年は飾ってほしいとは言わなかった。だからコルヴァンも、セレスが花を好きだという事をサクに話すまで忘れていた。


コルヴァンが無意識に花瓶へ指を伸ばすと、枯れかけの花の花弁がハラリと落ちた。コルヴァンの虚ろな瞳が熱をもった。


「…はずがない」


低く、地を這うような声。ぐしゃ、と花瓶にささる枯れかけの花を掴んだ。


「あの小娘が…耐えられるものか。あれだけ注いだのだ…わたくしの魔力を…!」


唸るようにつぶやく。その美しい貌には、明確な苛立ちが浮かんでいた。


「震え、枯渇し、飢えているはず…!だというのに、何故…!」


掌の中でぐしゃぐしゃになった花弁をザアと灰にして、指から滑り落とす。


「愚かな小娘…人間め!」


コルヴァンは荒々しく灰を払って踵を返し、主の部屋へ向かった。

捨ててやろう、あの小娘の持ち込んだ花など全て。そう思った。萎びた花など飾っていても、主の気が晴れぬ。


廊下を歩き、庭が目に入る。黒薔薇を咲かせた庭。あの小娘がやたら好んでいる庭園。その向こうの門は、やはり開く様子はない。


「────…」


コルヴァンは一気に怒りが冷えるのを感じた。代わりに、空虚で虚ろな気持ちになる。セレスティアの部屋の前に来た。魔力の気配が、かすかに揺らいでいる。


「主よ…」


その声は、どこか掠れていた。我ながら、なんと覇気のない声だと思った。扉の向こうからは、返事が無い。休まれているのかもしれない。それで良い。今の声を主に聞かせなくて良かった。


コルヴァンは、ふと立ち止まり、自身の手を見つめる。その手が、サクの髪を梳かし、頬に触れた感触を思い出す。


「……今は、冷えていまいか」


その言葉は、誰に向けたものでもなく。ただ廊下の闇に溶けていった。

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