4章 羽舞うワルツを
その日の夜の屋敷は、息を潜めたように静かだった。
サクは眠れず、長い廊下を1人で歩いていた。
コルヴァンが黒い薔薇を咲かせた庭園を眺めてから眠りにつこうと思ったのだ。庭園に面した廊下の大窓を探し、なんとかたどり着く。
背伸びをして、窓から外を覗く。そこから見える庭園の黒薔薇は、月光を浴び銀色に妖しく輝いている。今夜は珍しく嵐も吹いていない。
サクは自然と笑みがこぼれた。屋敷に通い始めたばかりの頃、庭に薔薇を咲かせ、サクの顔の汚れをハンカチで拭ってくれたコルヴァンを思い出すと幸せな気持ちになれた。満足したサクは窓を離れ、客室へ戻ろうと踵を返す。
ふと、通りかかった重々しい両開きの扉──普段は固く閉ざされている──が、わずかに開いていることに気がついた。
好奇心に駆られて足を止める。扉の隙間からか細く、美しいワルツの音色が漏れ聞こえてきていた。
サクは吸い寄せられるように、その扉の隙間からそうっと中を覗き込んだ。
そこに広がっていたのは、煌びやかな舞踏ホールだった。高い天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、無数の蝋燭の火を灯していた。淡い光をきらきらと床に落とし、銀の粒を描いている。
壁際には深紅のカーテンが重く垂れ、入り口正面の大窓の下には、カウチが置かれている。
そこに、翼を休める鳥のように、コルヴァンが一人で腰をかけていた。
その傍らのテーブルでは蓄音機が回り、針の擦れる微かな音とともに古いワルツを奏でている。彼は静かに、1人でそれに耳を傾けているようだ。
サクが息を呑み、絵画のような美しい光景に目を凝らした、その瞬間。
「…覗き見か」
低い声が響いた。コルヴァンは、こちらを見てもいない。サクはびくりと肩を震わせ、慌てて扉を少し押し開けて顔を覗かせた。
「す、すみません……!お邪魔ですよね、失礼しました……」
「邪魔ではない」
コルヴァンは視線をよこさずに、短く言った。
「入れ」
サクは少し迷って、そうっとホールに足を踏み入れる。
「えっと…こんな素敵なダンスホールがあったんですね」
コルヴァンは相変わらずサクには目もくれず、空虚な瞳でホールの中央を見つめていた。まるでそこで誰かが踊っているかのように見つめているが、もちろんそこには何もない。
「主は伏せる前、踊ることがお好きだったからな……」
淡々とした声が落ちる。サクは美しいセレスが舞う姿を想像し、目を輝かせた。
「すてきですね!もしかして、コルヴァンさんと一緒に踊るんですか?」
問いかけると、椅子に座るコルヴァンが、静かにサクを見つめた。この部屋に入って初めて目が合った。いつもより低いところにあり、近い距離の金色瞳に、サクは落ち着かない気持ちになる。
その眼が何を想ったのか、サクには分からない。ただ質問には答えず、彼はするりと優雅に立ち上がった。そして無言で大きな手を…サクに差し出した。
「え……」
音楽が流れる中、煌びやかなホールで、美しい男が自分に手を差し伸べている…。おとぎ話のような光景に、サクは混乱した。
「わ。わたしは奴隷ですから。ダンスなんて……」
首から垂れる鎖を指で弄り、慌てて首を振る。
「難しいことはない。私に合わせれば良い」
コルヴァンは静かに言った。今夜の彼の声音はどこかうつろで、少し寂しそうにも聞こえた。それが、なんだかこれ以上断るのを忍びない気持ちにさせる。本当にダンスなんてわからないから、踊れる訳がないのに。
サクはこわごわと、その手を取った。指先が触れた瞬間、氷のように冷たいのにどこか熱を孕んだ感触が走った。
コルヴァンのもう片方の手が、サクの腰に軽く添えられる。背筋が強張り、心臓が跳ねた。
大きく長い腕が、サクの腰や手に絡みつくように添えられている。
コルヴァンはとんでもなく背が高い。サクは彼の胸にも頭が届くかどうかというところだ。そんな彼に包み込まれるように引き寄せられ、サクは息をのんだ。
「一歩…前へ」
頭上から降る低い声に従い、サクは足を出す——次の瞬間、サクの靴底が彼の硬い靴を、ぐっと踏んだ。言い訳もできぬほど、思い切り、見事に。
──ああっ…!
サクは顔面蒼白になる。最初の一歩で…まるで狙い澄ましたように足を踏みつけてしまった。自分でも驚いてしまい、謝罪すら咄嗟に出てこなかった。
だがコルヴァンは眉ひとつ動かさなかった。ただ忌々しげに、低く呟く。
「…愚図が」
吐き捨てるような言葉。
「ごっ、ごめんなさい、わたしやっぱり──あっ、」
コルヴァンに手を引かれた。うんざりだと放り投げられてしまうだろうと思ったのに、その手は離れない。彼は辛抱強く、ゆっくりとステップを教え始めた。
右へ、左へ。
コルヴァンがくるりと腕を回すと、サクの軽い体は、力を入れずとも舞う。しかし、動きについていけず足はもつれた。するとコルヴァンは速度をわずかに緩める。
「どん臭い小娘め。力を抜け」
サクは必死に頷く。自分で動きを考えず、彼のリードに従うよう心がけてみる。そうすると、不思議と足はもつれなくなっていった。
彼の指先が導くたび、サクの体は軽やかに回り、ボロ布のスカートの裾がふわりと舞った。最初は恐る恐るだったサクも、次第に足が音楽に馴染んでいく。胸の奥が熱くなる。こんなことは初めてだった。音楽に合わせて、ただ踊ることが楽しかった。
ふと、笑みがこぼれたその瞬間。コルヴァンと視線が絡んだ。熱を孕んだ瞳がサクを射抜く。その視線に息が詰まる。
そこで、サクはふと気づいた。
自分の小さな腰を抱く、コルヴァンの腕の力が強まってきていることに。まるで、獲物を押さえつけるかのような、有無を言わさぬ力。サクは今コルヴァンの動きに合わせているからつんのめることはないが、自分の意思では、好きに動けないだろう。
ぞくりとした感覚が、背筋を走った。
なぜか、森の中で妖精を握りつぶした時のコルヴァンを思い出した。サクは、自分もきっと彼が少し力をこめただけで握り潰せるようなちっぽけな存在なのだと思った。それはきゅっと心臓が小さくなるほど恐ろしいことのはずなのに、なぜかサクはこの異形の腕から逃れたいとは思わなかった。
音楽が、最後の旋律を奏でて、静かに終わった。
広いホールに残るのは、二人の呼吸だけ。サクはコルヴァンの胸に身をゆだねたまま、息を切らしていた。鼓動が速く、耳の奥でどくどくと音が鳴る。
サクは自分に影を落とす男を見上げた。シャンデリアの光が逆光となり、顔に影が落ちているのにその瞳だけはぎらりと光っている。その燃えるような金色が、ゆっくりと、サクを射抜く。
サクはその視線に、息が詰まる。
──怖い。でも、目が離せない。
熱っぽくサクを見つめていたコルヴァンは、ゆっくりと瞬きをした。すると彼の表情から、熱が消え失せた。そして腕の中の小さな温もりをそっと、しかし有無を言わさぬ力で突き放した。
「…もう良いだろう」
その声は、普段の氷のように冷たい響きを取り戻していた。
「部屋に戻れ」
サクは夢見心地のまま、ふらつきながらも、彼から一歩、後ずさった。
「…ありがとう…ございました」
か細い声でそう言って、深く頭を下げる。
コルヴァンが返事もせずにただ自分をじっと見つめているのを感じながら、サクは逃げるようにホールを後にした。彼女の背後で、重い扉が静かに閉じる。
残されたのは、コルヴァン一人と、静かに回り続けるレコードの微かなノイズだけ。
彼は動かなかった。ただサクが消えた重い扉を…先ほどまでの、氷のような冷静さはどこへ消えたのか。再びギラついた熱い瞳で、食い入るように見つめていた。
◆
客室のベッドに腰掛けたまま、サクはまだ自分の頬が熱を持っているのを感じていた。
胸が早鐘のように鳴っている。コルヴァンの、燃えるような金色の瞳。
突き放されたけれどその腕の硬く、そして確かな感触が、まだ身体に残っている。
混乱する心で、窓の外を見つめていると。
「…とても素敵なワルツでした」
優しい、しかしどこか儚げな声がした。
サクがはっと顔を上げると、窓辺にセレスが腰掛けていた。月明かりに照らされたその姿は、まるでガラス細工のように透き通って美しかった。
「セレス様…!? 見て、いたのですか…?」
「ええ。あのホールで音楽が鳴るのは、久しぶりだったから」
セレスは微笑んだ。
「驚いた。あのコルヴァンが、あんなに辛抱強くダンスを教えるなんて…しかも、あんなに楽しそうに」
「た、楽しそう、でしたか…?わたしは、ずっと怒られているのかと…」
「ふふ。彼は不器用なの」
セレスは窓から降りると、サクの隣にそっと腰を下ろした。
「自分の心をどう表現していいか、分からない。だからいつもあんな風に、冷たい言葉や意地悪な態度でしか…気持ちを示せないの。でも、本当は…」
セレスはそこで、一度言葉を切った。
「…あなたのその温かさが、彼の凍てついていた心を少しずつ溶かしてくれている。サク。あなたの存在は彼にとって、かけがえのないもの」
サクは、その言葉の意味が、よく分からなかった。
──わたしが…? あの人の…?
セレスは、サクの方へと向き直った。その瞳には、切実な光が宿っている。
「サク。もしも私に…何かあったら。その時はどうか、彼を一人にしないで。彼のそばにいてあげてくれる…?」
それは、病弱な少女が自分の死期を予感して、最愛の人の未来を託すような。あまりにも切ない願いに聞こえた。
サクはセレスが、自分の病が治らないと考えているのだろうかと思った。サクはどうにかセレスを元気付けたくて、真剣にセレスを見つめた。
「セレス様、どうかそんなふうに言わないで…気を落とさずに。大丈夫ですよ。また、お花を摘んできますから…それにわたし、許される間ならきっとここへ通います」
その言葉の本当の重さも知らず。サクはただ目の前の消え入りそうなほど儚い…美しい少女の願いを断ることなどできなかった。
「コルヴァンさんのことも、よくわからないけど…なにか、ご心配なことがあるんですよね。わたし、なんでもします」
セレスが一瞬呆けたようにサクを見つめた。そして目を細める。
「ありがとう、サク…」
セレスが悲しそうに、しかしどこか安心したように微笑んだ。
その笑顔を見て、サクは自分できることはなんでもしたいと、さらに強く思った。
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