第12話 冷たい陽だまり

 数週間前。因課・本部。


 報告書と資料が積み上がったデスクの間を抜けて、海莉がオフィスに入ってくる。

 息を切らしてはいるものの、服には汚れひとつない。

 現場帰りの顔には疲労よりも、仕事を終えた清々しさがあった。


 職員たちは一斉に笑顔を浮かべる。

 この男が帰ってきた瞬間、空気が少しだけ柔らぐのを、皆が知っていた。


「おかえりなさい、浅葱さん」


「また派手に片づけてきたんでしょ」


「うるせぇな。片づけるのが仕事だろ」


 軽口を返しながら、海莉は一直線に冷蔵庫へ向かう。

 それはもはや職員たちの見慣れたルーティンだった。


 現場から戻ると、まず冷蔵庫を開け、無言で牛乳を取り出す。

 それが、浅葱海莉の習慣であり、ささやかなこだわりだった。


 しかし、この日は違った。


「……おい」


 冷蔵庫のドアを開けたまま、海莉が振り返る。

 眉間に皺を寄せ、室内を一望する。


「誰だ、俺の牛乳とヨーグルト入れ替えたやつ」


 室内の空気が凍る。

 誰もが目を逸らした。


「俺はビフィズス菌を取りてぇわけじゃねぇ。牛乳が飲みたいんだよ!」


 声が響き、職員のひとりが小さく吹き出した。

 次の瞬間、笑いが伝染する。


「また始まった」


「浅葱さん、それもう冷蔵庫の七不思議ですよ」


「いっそ“因課牛乳事件”で報告書出します?」


「うるせぇ、課内調査してやる!」


 口では文句を言いながらも、海莉の口元には薄い笑みが浮かんでいた。


 文句を言いながらも、海莉は牛乳とすり替えられたヨーグルトを無言で開けた。

 一口、二口。

 眉をしかめつつも、結局は全部飲み干す。


「腸活する気はねぇんだよ、こっちは」


 ぼやきながらデスクに戻ると、そこには新たな紙の山が鎮座していた。

 報告書、申請書、承認待ちの書類の束。

 まるで彼の帰りを待っていたかのように。


「……またかよ」


 盛大にため息をついて、椅子を引く。

 キーボードの隣にヨーグルトの空容器を置き、無言でペンを取る。


 数分後。

 すでに海莉は、現場帰りから内勤モードへ切り替わっていた。

 無駄のない動きで紙を仕分け、印を押し、メモを走らせる。


「現場帰りですぐ内勤入れる浅葱さん、マジですげぇよな」


「流石、因課いち忙しい男」


 感嘆交じりの声が飛ぶ。

 海莉は、ただ指先で書類を揃える音を返した。


 その瞬間、電話が鳴る。

 誰よりも早く、海莉が受話器を取る。

 左手は書類の整理を続けながら。


「はい、国家異能者登録・管理課、浅葱です。……異能暴発で電柱が? はい、了解。すぐ行きます」


 淡々と答え、通話を切る。

 立ち上がりながら腕時計を確認し、背後の職員たちにひとこと。


「昼休み返上申請。あとで出張処理費の申請書もな」


「またですか? そろそろ有給消化してって泣かれますよ」


「浅葱さん、昨日も現場行ってたし。このままじゃブラックになるって噂もあるんですから」


「うるせぇ。電柱は俺の休み待ってくれねぇんだよ」


 ぼやきながら、海莉はオフィスを出た。

 静かな余韻だけが残る。


「あの人、あんだけ仕事できるのに昇進拒否してるんだってさ」


「まあ、上に行けば机仕事増えるしね。それにあの人、人を使うより自分で全部解決しちゃう人だから」


「でも、明日の早朝会議……浅葱さん出るみたいだよ」


「ああ、白楼の件だろ」


 書類をめくる音の合間に、誰かがぽつりと呟いた。


「あの人、相当気にかけてたもんな……。白楼なんて、普通なら関わりたがらないのに」


 その言葉に、他の職員も一瞬だけ手を止めた。

 それ以上、誰も何も言わない。

 まるで、その“白楼”という名を口にするだけで、部屋の温度が下がるかのようだった。


 蛍光灯の明かりがかすかに瞬き、時計の針が静かに進む。


 ――その翌日。


 浅葱海莉は、名目上の『行方不明』と扱われた。


***


 そして、現在。

 白楼で生きる浅葱海莉は、上に立つ者としての責任と向き合っていた。


 現場も内勤も知るからこそ、命を数字に変えられない。

 それに耐えられないから、白楼を救いにきたつもりだった。


 誰かを救うたびに、誰かを救えない現実が突きつけられる。

 それでも、命を最優先に……。

 その信念だけは手放さなかった。


 明日の陽をみんなで見るために。


 だが、信頼している仲間が影喰いに蝕まれている。

 見て見ぬふりなど、できるはずがなかった。

 それでも今は、感情のまま動けば全員が崩れる。


 だからこそ、感情を殺してでも守らなければならない。

 生き延びるために。

 誰かの命を、次の朝へ繋ぐための責任を――


「おーい、海莉」


 手を振った駿が駆けてくる。


「……どうした?」


「聞いてくれよ。透子が毎日検診するとかうるさいんだよ。俺、どっか悪いように見えるか?」


 その言葉に息を飲む。

 こんな何気ない会話も見張っていないといけない。感情を殺さないといけない。


「……心配なんだろ。お前、最近寒がってるから風邪引いてんじゃねぇか? 俺に移すなよ?」


 冗談めいて笑ってみせる。


「あー……確かに風邪なんて引いてる場合じゃないもんな。不安にさせんのも悪いし、リーダーが言うなら従っておくよ」


「リーダーって言うな。恥ずかしいんだよ、そういうの」


 海莉が肩をすくめると、駿は笑い声を上げた。

 その笑いは、変わらないように見える。

 しかし、その笑顔を見ているだけで、胸の奥が痛んだ。


(……まだ、大丈夫だよな)


 自分に言い聞かせるように、海莉は小さく息を吐いた。

 風が吹き抜け、駿の髪が揺れる。

 その頬に当たる陽光は、あの日と同じく白く冷たい。


(……守ってやる。どんな形になっても)


 胸の奥で、決意が再び固くなる。

 だがそのすぐ隣で、冷たい現実が静かに息を潜めてた。


「あ、そうだ。海莉」


 何かを思い出したように、駿がポケットを探る。

 指先が金属を掴む音がした。


「最近、物落とすこと多くなってな……。これ、預かってくれよ」


 差し出されたのは、使い古されたライター。

 表面には細かい傷がいくつも刻まれている。

 駿が休憩のたびに弄んでいた、あの癖のある仕草の名残。


「……いや、自分で管理しろよ。俺は忘れ物センターじゃねぇぞ」


 受け取る手を躊躇う海莉に、駿は軽く笑う。


「なくしたら困るんだよ。俺より、お前の方がしっかりしてるし」


「バカ言うな。これ、お前のだろ」


「いいんだよ。戻ってきたら、返してくれりゃ」


 その言い方が、妙に引っかかった。


 “戻ってきたら”


 まるで、もう違う場所に行くとでもいうように聞こえる。


 海莉は何も言わず、ライターを見つめる。

 指先に伝わる金属の冷たさが、やけに現実的だった。


「……分かった。けど、ちゃんと返すからな」


 駿は満足そうに笑って、背を向ける。

 光を受けて、その影だけがゆっくりと伸びていく。


(何で、こんなに冷てぇんだよ……)


 海莉はライターを握りしめたまま、内心呟いた。

 灰色の風が吹き抜け、陽が傾きかけている。


「帰るか」


「……そうだな」


 何気ない会話。

 だが、その一瞬――海莉の視線が足元に止まる。


 駿の影が、二重になっていた。

 ひとつは太陽の角度で生まれた濃い影。

 もうひとつは、薄く揺れながら地面を這う影。


 まるで、駿の動きを真似するように。

 ほんのわずかな遅れで、同じ形を描く。


(……これ、って)


 心臓が跳ねた。

 息をする音さえ響く気がして、海莉は無意識に拳を握る。

 確かめたくても、確かめた瞬間に何かが崩れてしまう気がした。


 一縷の風が吹く。

 影が重なって、また二つに分かれたように見える。


「どうした?」


 駿が首を傾げた。

 その瞳は、いつも通りの穏やかさで。


「……なんでもねぇよ」


 海莉は視線を逸らし、ライターをポケットに押し込んだ。

 胸の奥で、何かが冷たく鳴った。

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