白楼に陽が昇るまで、俺たちは戦っている

森鷺 皐月

第1章 白楼沈落編

第1話 白楼を捨てる日

 異能を管理する【国家異能者登録・管理課】

 ――通称・因課と呼ばれる組織がある。

 灯影市、洛陽市に支部を置き、その本部は行政都市に存在する。


 会議室には、各支部から集められた代表者と実務官たちが並んでいた。

 その中に、浅葱海莉の姿もあった。


 金髪交じりの黒髪に、ラフなオーバーサイズの服。

 テーブルの上には、いつものように牛乳の紙パック。

 内勤も都市内巡回の現場もこなす忙しさの中で、重苦しい空気に海莉は眉間の皺を深くした。


 本部長の水島詩が、苦々しい表情を浮かべる。

 まだ若いといえど、本部を任され、職場にホワイトを与えてきた人物だ。


『仕事のために生きるんじゃない。生きるための手段のひとつが仕事だよ』


 それが彼の口癖だった。

 組織のトップとは思えないほど感情的で、柔らかい。

 だからこそ、因課はホワイトとして成り立っている。


 海莉も、そんな詩に共感していた。

 忙しい仕事も、彼と共に働けるなら嫌な気分ではなかった。

 しかし、この時だけは譲れなかった。


「……白楼都市の封鎖を、承認します」


 その言葉に、海莉の拳が机の下で震えた。


「……承認って、なんですか」


 沈黙に満ちた会議室に、海莉の声だけが響く。


「生きてるやつらがまだいる。封鎖なんて、早すぎるだろ」


 幹部の霧嶋が目を細め、冷ややかに返した。


「判断が遅れれば被害が拡大する。あの区域は、もはや都市機能を喪失している」


「機能じゃなく、人がいるって話をしてるんだよ!!」


 詩は沈黙のまま、真っすぐに海莉を見据えた。


「……浅葱君の言う通りだよ。でも、今はもう救助はできない」


「水島さんまで、そんな言い方をするんですか」


「僕も……できるだけ多くの人を生かしてあげたい。けれど、それができないんだ」


 その声は、震えていた。


「だからこそ、せめて一定期間の補給を約束する。ここで僕たちにできるのは、それだけだ……」


 海莉は答えず、机の上の牛乳を掴んだ。

 一口飲んで、無理やり喉を潤す。


「……わかりました」


 そう言い残して、彼は会議室を出た。

 扉の外で、詩の声が小さく聞こえた。


「本当は、僕が行くべきなんだ」


 その言葉に、海莉の足が一瞬だけ止まる。


「あんたがここにいなきゃ、なおさら救えねぇよ」


 それは反発でも怒号でもなかった。

 誰にも届かない、ひとりの決意の声だった。


 扉の向こう、廊下の窓から見えた空は白んでいた。

 陽は、まだ昇っていない。


***


 海莉は、その足で自分のデスクへ向かった。

 作りかけの書類を一気に片づけ、引き継ぎ事項をメモに残す。

 机の隅には、未開封の報告書と、昨日までの自分がいた痕跡。


「……こんな気持ちのまま、働けるかよ」


 低く呟く声が、書類の山に吸い込まれた。


 ロッカーから防災グッズを拝借し、

 リュックに最低限の物資を詰め込む。

 水、ライト、救急セット、日持ちする食糧。

 全て現場で使うことを想定した動き。


 もう迷いはなかった。


 これは逃避じゃない。

 まだ生きている人間を、見捨てないための仕事だ。


 静まり返った廊下を歩くと、詩の執務室の扉が半開きになっていた。

 中を覗けば、詩が無線機を見つめている。


 ノイズの向こうから、微かな声が聞こえた。


『こちら白楼……聞こえますか……誰か……』


 詩は顔を上げずに言った。


「やっぱり、行くんだね」


 海莉は返事をしなかった。

 ただ一歩だけ、足を止めて答える。


「……あんたがここにいるなら、俺は現場に行く」


「浅葱くんらしいな。止めても行くんだよね」


「もちろん」


 詩の微笑みは、苦しそうに揺れた。


「無理はしないで。君の帰る場所は守るから」


 海莉は頷き、背を向けた。


***


 封鎖区域の外縁。

 警備線を越えた先には、崩れかけた街の輪郭が霞んで見えた。

 風が吹くたび、錆びたフェンスが軋む。


 海莉は立ち止まり、無言で白楼を見つめた。

 その奥に、まだ生きている誰かの姿を思い浮かべる。

 あの街で生まれた子どもたち。

 まだ帰ってこない救助班。

 報告にすらならなかった、無数の名もなき声。


 夜が明けかけていた。

 空の端で、薄く色づいた雲が赤く染まり始める。

 白楼を覆う霧の向こう、太陽の輪郭がゆっくりと覗く。


「……陽が、昇るな」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。

 白楼に届くかどうかも分からない。

 ただ、確かに朝が来るという事実だけが、彼の背を押した。


 海莉はリュックの紐を握り直し、フェンスを越える。

 錆が剥がれ落ち、靴の底に音を立てた。


 冷たい空気の中で、白楼の街は沈黙している。

 遠くで、建物の崩れる音がかすかに響いた。


 その日から、彼は離反者となった。

 けれど、誰もそれを裏切りとは呼ばなかった。


 ――彼はただ、守る場所を外から内へ変えただけだった。


 陽が昇るまで戦い続ける者たちの一人として。

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