第2話 陽が傾く街で

 フェンスを越えて白楼に入れば、海莉の周囲には白い霧と錆の匂い。

 太陽が完全に昇りきらず、街全体が淡くオレンジに沈んでいる。

 湿った土と鉄の匂い、鳥の鳴かない静寂。


(まだ生き残ってる。この街は、まだ呼吸をしている)


 通信機をつけてみれば、ノイズ混じりの音が微かに聞こえ、すぐに途切れた。


(外との連絡は絶望的……水島さんの判断は間違ってねぇし、補給落としてくれるのが限界ってのは分かる。でも――)


 海莉は拳を強く握り締めた。


(まだ生きてる街を見捨てるなんて、俺には出来ねぇよ)


 壊れたビルの壁面に、かすれた赤文字が残っていた。


『陽の下に出るな』


 ――白楼の住人たちが残した警告だ。


 海莉は短く息を吐き、リュックの紐を握り直す。

 そして、沈みゆく橙の中を進んだ。


 後頭部に固いものが刺激された。

 足元を見れば、小石が落ちている。


 周囲を見渡すと、建物の陰に隠れている子供たちが、錆びた缶や石を海莉に投げていた。


「いてっ……いって! 石投げんな! 痛えって!」


 一人が叫ぶ。


「外のやつだ!」


 もう一人が、割れた窓の隙間から顔を出す。


「お前らが、ここを殺したんだろ!」


 海莉は思わず動きを止めた。

 子供たちの顔は汚れと埃にまみれている。

 目だけが異様に強く、怯えと怒りの境界で光っていた。


「……違ぇよ」


 子供たちに歩み寄り、リュックから取り出したタオルで顔を拭いてやる。

 乾いた布が頬をなぞるたび、灰色の汚れが落ち、肌の色が覗く。


「ここはまだ生きてる。だから、来た」


 小さな肩が震えた。

 石を持っていた手が、ゆっくりと下がる。

 一人の子供が、唇を噛んだまま涙をこぼした。


 その涙が、海莉の袖に落ちる。


 ――その時。


「おい、何してる!!」


 野太い声が響いた。


 振り向けば、ガタイの良い男たち。

 彼らの服は擦り切れ、手には鉄パイプや木の棒。

 まるで、日常の延長で戦う準備をしているようだった。


 一人が海莉の服の裾に光る銀のバッヂ――

 因課職員を示す紋章を見つけて、顔を赤くした。


「見捨てといて……今さら何の用だ! 潰しに来たってのか!?」


「ここには、まだ今日を生きる人間が沢山いるんだぞ!!」


 海莉は両手を上げた。


「待て、俺は救助に――」


「救助だぁ!? 今さらか!? あの時、誰も来なかった!!」


 声が増える。


 一人、また一人と、廃ビルの陰から人が集まり、崩れたアスファルトの上に靴音が重なる。


 子供たちが怯え、海莉の背に隠れた。


「違う! 俺は――」


 その言葉を遮るように、群衆の奥から明るい声が響いた。


「おーい、朝っぱらから元気だなぁ。こっちは寝起きで頭回ってねぇんだ。ガキ共も怯えてるぞ」


 その声に、群衆が一斉に振り返る。


「駿……。でもよ!」


 住人の抗議に、駿と呼ばれた男は手を軽く振った。

 日焼けした肌、首に巻いた布、手には古びたライター。

 へらりと笑うだけで、住人たちは口を閉ざす。


「……お前は?」


「ただの住人だよ。敵じゃねぇんだろ? 喧嘩するとお互い腹が減る」


 駿は片手を上げ、海莉と群衆の間に割って入った。

 その笑顔だけで、空気が少しだけ和らいだ。


「朝飯前にケンカすんなよ。腹減ってる奴の言葉は、だいたい間違って聞こえる」


 その軽口に、怒号の中へわずかな笑いが混じった。


***


 群衆が散っていくのを見届けてから、駿はため息をついた。


「悪いな。みんな腹減ってんだ。飯がねぇと、心まで荒れる」


「お前がまとめてるのか、この街」


「まとめてる? いやいや、まさか。勝手に動く奴らを見て、笑ってるだけだよ」


 駿はポケットからライターを取り出し、火をつけてみせた。

 火は一瞬で消え、白い煙だけが残る。


「陽が沈む前に寝床を見つけろ。夜は歩くな。生きるためのルールだ」


 海莉はその言葉の意味を掴めずにいた。

 だが、駿の目だけは笑っていなかった。


「確かに寝床は見つけねぇとな。狭くても端でもいい。どこか余ってる場所、あるか?」


「余ってるとこなんてねぇよ。みんな身を寄せ合って生きてるからな。あんた、名前は?」


「浅葱海莉だ。海莉でいい」


「おお、綺麗な名前だな! 俺は駿。……あんた、そのバッヂは隠した方がいいぜ。因課ってだけでキレる奴ら、山ほどいるからな」


 駿が人差し指で海莉の服の裾を指差す。


「……みたいだな」


 海莉は苦笑し、バッヂを外してリュックの奥底にしまい込んだ。

 金属の音が、小さく沈んだ。


 その音に反応するように、背後で小さな声がした。


「駿のとこ行きなよ! 助けに来たんでしょ?」


 海莉の服を掴んでいた子供が、顔を上げて声を弾ませる。

 涙の跡がまだ乾かない頬に、かすかな笑みが浮かんでいた。


「行きなよって言われてもな……」


 海莉は困ったように駿へ視線を向けた。


「ま、今の状態で居住区行ったら、タコ殴りされるだろうしなぁ」


 ふむ、と駿は顎に手を当て、少しだけ思案する素振りを見せる。

 そして、にやりと笑った。


「……じゃあ、俺んとこ来いよ。倉庫なら屋根もあるし、腹も膨れる」


「悪いな。……あ、そうだ」


 海莉はリュックから乾パンの缶を取り出し、子供の一人に持たせた。


「交渉の例だ。喧嘩すんな。みんなで食えよ」


「わあっ! いいの?」


「いいから持たせてんだよ。ガキは、ちゃんと食え。ちゃんと、仲良くな」


 子供の頭を撫でると、埃をかぶった髪がふわりと揺れた。

 その仕草に、周囲の子供たちが少しずつ顔をほころばせる。


「ありがとっ! 海莉!」


「おい、呼び捨てすんな」


 海莉の言葉など聞こえないかのように、子供たちは笑いながら走り去っていく。

 足跡が乾いたアスファルトに残り、光の中に溶けていった。


 空を見上げれば、まだ午前のはずなのに、陽はもう傾きかけていた。


(午前でこれか。白楼は、太陽の高度が低いって聞いたことあるけど……きついな)


 白楼の空は、時間の感覚さえ狂わせる。


「……じゃあ、行くか。日が沈む前にな」


 駿がそう言って、ライターを指先で弾いた。


「日が沈んだら、危険なんだっけ?」


 因課の報告会議を思い出しながら、海莉は駿に疑問を投げかけた。


「んだよ、知らねぇのか」


 駿は苦笑して、肩をすくめた。


「“影喰い”だよ。白楼に残った連中は、みんなあれを見てる。夜になると、光に群がる。音にも、息にも反応する。姿は人の形してるけど……もう、人じゃねぇ」


「暴走した異能者か?」


「さあ。けど、どこまでが人間で、どこからが化け物かなんて、もう誰にもわからねぇ。触れられたら最後、影の中に飲まれる。足跡も残らねぇ」


 駿は短く息を吐き、視線を空へ向けた。

 太陽の輪郭がかすかに歪み、街の影が伸び始めている。


「だから、夜は歩くな。火も灯すな。光は、あいつらの餌になる」


 海莉は無言で頷いた。

 空の色がゆっくりと褪せ、白楼の街に夜が忍び寄っていた。

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