その近道
こんばんは。
今夜は雨音が酷いですね。どうぞ、中へ入って雨宿りしていってください。
温かいコーヒーでも淹れましょう。雨音に紛れて語る怪談というのも、また乙なものです。
今日あなたにお話しするのは、都内の大学に通うH君という青年から聞いた話です。
彼は身長が高く、スポーツで鍛えた体をしていて、本来なら怪談など笑い飛ばすような快活な青年でした。しかし私の元を訪れた時の彼は、まるで背後に常に誰かが立っているかのように、落ち着きなく周囲を気にしていました。
彼は当時、クロスバイクを使ったフードデリバリーのアルバイトをしていました。
これは、彼のある雨の夜の体験。地図アプリに導かれて、世界の裂け目のような場所に迷い込んでしまった話です。
その日は金曜日の夜で、冷たい雨が降っていました。
注文が殺到するピークタイムに加え、悪天候の手当てがつくため、彼は稼ぎ時だと張り切ってペダルを漕いでいました。スマートフォンの画面にはデリバリー用のアプリが表示され、次々と効率的なルートと次の配達先を指示してきます。
数件の配達をこなし、レインウェアの中が蒸れて不快になり始めた頃、一件の通知が入りました。
ピックアップした温かい料理を、川向こうの古い住宅街へ届けるというオーダーです。
H君はハンドルに固定したスマホの地図アプリを確認しました。
普段なら大通りを迂回する安全なルートが表示されるはずです。しかし、その夜、AIが示したのは奇妙な近道でした。
それは、古い工場の裏手と、高架下の薄暗いトンネルを一直線に突き抜けていく、彼が今まで一度も通ったことのない細いルートでした。
「こんな道、あったかな?」
H君は首を傾げましたが、次の注文も待っています。一分一秒でも惜しかった彼は、その青く光るナビゲーションラインに従うことにしました。
工場の裏手の道は、舗装こそされていましたが街灯が一つもありません。あるのは、タイヤが濡れたアスファルトを切り裂く水音と、自分の荒い呼吸音だけ。
そして、ナビに従って高架下のトンネルを抜けた時でした。
彼は、世界が変質するのを肌で感じたそうです。
トンネルの中と外で、空の色が変わったわけではありません。雨も同じように降り続いています。ですが空気の質だけが、決定的に変わってしまった。
まるで、今までいた世界とは別の、真空パックされた空間に入り込んだような、鼓膜がツンとする閉塞感。
そこは、どこにでもあるありふれた住宅街に見えました。
ガードレール、等間隔に植えられた街路樹、戸建ての家々。
しかし、何かが致命的におかしい。
H君は自転車のスピードを緩め、その違和感の正体を探りました。そして、すぐに気づきました。
気配がないのです。
夜の7時過ぎと言えば、夕飯時です。家々からは明かりが漏れ、テレビの音や食器が触れ合う音、家族の話し声などが聞こえてくるはずです。
しかしその区画には、それらが一切ありませんでした。家々の窓はすべて暗く、雨戸は閉ざされ、まるで街全体が眠っているかのような、薄ら寒い静寂だけがある。
それでもH君は配達先を目指してペダルを漕ぎました。
すると、前方の信号機のない交差点に、一人のサラリーマン風の男性が立っているのが見えました。
彼は傘も差さずに、雨の中に立ち尽くしています。
H君は酔っ払いか何かかと思い、避けようとして近づきました。
そして、すれ違いざまに、ある奇妙なことに気づいてブレーキをかけました。
その男性は、スマートフォンを耳に当てて、誰かと通話しているポーズをとっていました。
しかし、口がまったく動いていないのです。
視線を巡らせるでもなく、ただ虚空を見つめたまま、静止している。
雨がスーツを濡らしているのに、彼はその冷たさを認識すらしていない様子でした。
まるで「電話をしている人」という役割のまま、映像が一時停止してしまったかのように。
H君の呼吸が荒くなります。
慌てて周囲を見回すと、異変はそれだけではありませんでした。
公園のベンチには、女子高生らしき姿がありました。
彼女は文庫本を開いて視線を落としていますが、その指先はページの端にかかったまま、微動だにしません。
風が吹き、雨粒がページを濡らしても、彼女は瞬き一つせず、同じ文字を見つめ続けています。
コンビニの前の灰皿のそばには、二人の作業着の男性たち。
彼らはタバコを指に挟み、向かい合って談笑しているようなポーズをとっています。火のついた先端からは煙が上がり、物理法則通りに風に流れている。
しかし、肝心の人間たちが、ピクリとも動かない。
長い灰が今にも落ちそうなのに、彼らはその灰を落とすこともしない。
まるで彼らの時間だけが、完全に止まってしまったかのような、不気味な
誰も、反応していない。
雨は降っているし、煙も揺れている。なのに、人間だけが活動していない。
その、生命感だけが抜け落ちた光景を見た時、H君は直感的に理解してしまったそうです。
「ここは、世界の
彼の中に浮かんだのは、ゲームにおける描画の概念でした。
この世界というシステムは、観測者である人間がいる場所にだけコストをかけて、現実という映像を維持しているに過ぎないのではないか。
誰も見ていない場所では、世界はその細かい動作を省略し、最低限の形だけを置いているのだ、と。
ここは本来、誰も通るはずのない道でした。
観測者が来る予定がなかったから、世界はここの時間を進めていなかった。
彼らは人間として生きているのではない。ただの景色の一部として、そこに待機させられている、背景の住人たち。
彼は見てしまったのです。
本来アクセスできないはずの、魂が入る前の舞台裏に、システムのエラーで迷い込んでしまった自分を。
その時です。
彼のハンドルの上で、スマートフォンのナビが、能天気な電子音を鳴らしました。
『ポーン。まもなく、目的地付近です』
その電子音が、合図になってしまいました。
まるで、舞台の幕が上がる合図のように、その場の空気を一変させたのです。
電話を持ったまま固まっていた、あのサラリーマンの手が、急に動きました。
彼はスマートフォンを耳から離し、気だるげにポケットへしまいます。その動作には、人間らしい迷いや感情の色が一切ありませんでした。
ただ、「電話をする演技は終わった」という事務的な完了動作だけがある。
次いで公園のベンチからも、パタン、と乾いた音が響きました。
女子高生が本を閉じ、立ち上がった音でした。彼女の視線は、虚空からゆっくりとH君の方へ巡らされます。
コンビニ前の男たちも、指に挟んでいた吸いかけのタバコを、足元の水溜りにポトリと落としました。
ジュッ、と微かな音がして火が消える。
彼ら全員が、示し合わせたように、無言でH君の方を向いたのです。
怒っているのでも、驚いているのでもありません。
ただ、そこに「観測者」が来たから、認識機能が働いただけ。
深夜のショーウィンドウの中にいる、精巧なマネキンたちの視線のようだったとH君は言いました。
一歩、サラリーマンがこちらへ踏み出しました。
次いで、女子高生も、作業着の男たちも。
彼らは何も言わず、ただH君を中心にして、ゆっくりと距離を詰め始めました。
プログラムされたルーチンのように、淡々と。
「見つかった。修正される」
H君は本能的にそう悟りました。
ここにあるのは「舞台裏」の秘密。客席にいるべき人間が迷い込めば、システムはバグを取り除くために、何らかの処理を行おうとするだろう、と。
彼は配達など放り出して、来た道を死に物狂いで引き返しました。
背後で、複数の足音が水溜まりを叩く音が聞こえましたが、誰も声を上げません。ただ、ヒタヒタという規則正しい足音だけが、どこまでも追いかけてくる。
高架下のトンネルを全力で駆け抜け、工場の裏手を過ぎ、車の往来がある大通りに飛び出した時。ヘッドライトの明かりと、行き交う車の騒音に包まれて、彼はようやく道路脇に倒れ込みました。あまりの恐怖と酸欠で、指一本動かせなかったそうです。
彼が息を整えて画面を見ると、スマートフォンの地図アプリは、何事もなかったかのように元の安全な大通りルートを再検索していました。
彼が迷い込んだあの場所がどこだったのか。ログを見返しても、GPSの軌跡は乱れていて、ただの無意味なギザギザの線として記録されていたそうです。
H君はそれ以来、ある強迫観念に憑りつかれてしまいました。
「もし、俺たちが見ていない時、俺の家族や恋人は、ちゃんと実在しているんでしょうか?」
彼は私の前で、自分の背後を気にするように振り返りながら、小声でそう呟きました。
背中を向けている家族。
電話の向こうにいる友人。
自分の視界から外れた瞬間の、すべての人々。
彼らは、自分が視線を向けた瞬間にだけ中身が入り、慌てて「人間」として振る舞いを始めているだけなのではないか?
自分が見ていない時、彼らはあの雨の日の住人たちのように、演技をやめて無表情になり、虚空を見つめて静止している、ただの抜け殻なのではないか。
それを確かめる術は、永遠にありません。
なぜなら、私たちが振り返って確認しようとした、まさにその瞬間に、彼らは完璧に演技を再開してしまうのですから。
H君は今でもデリバリーの仕事を続けていますが、もうナビの推奨する近道だけは、決して使わないそうです。
AIがたまに気まぐれで案内する、「誰も通らないはずの道」。そこには、まだ準備のできていない、生煮えの世界が広がっているかもしれませんからね。
さて、あなたのスマホの地図はどうですか?
その青いラインが、たまに見たこともない細い道を指し示すことはありませんか?
もしそんな道が表示されたら、遠回りでも、知っている道を通りなさい。
そこはまだ、人間が立ち入っていい
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