怪奇蒐集家の手帖

すまげんちゃんねる

そのイヤホン

 こんばんは。

 今夜は、一段と冷え込みますね。外はもう、すっかり冬の匂いです。

 さあ、どうぞ中へ。暖炉には火を入れたばかりですから、すぐに暖まりますよ。いつものソファへどうぞ。熱い紅茶でも淹れましょう。

 この静かな夜には、人の記憶の奥底から掬い上げた、そんな話がよく似合います。


 今日あなたにお聞かせしたいのは、ある高校生が私の元を訪ねてきた時の話です。ええ、蒐集家を名乗っていると、時折こうして自ら体験を語りに来てくれる方がいるのです。その多くは気の迷いや、ありふれた感傷に過ぎないのですが…彼の話は、少し違いました。


 彼が、仮にM君と呼びましょうか。

 M君が私のこの書斎のドアを叩いたのは、もう葉がすっかり落ちきった、ある風の強い日の夕暮れでした。インターホンの画面に映るM君は、年の頃に似合わないほど深く疲弊した顔をしていてね。招き入れると、彼はまるで獣のように警戒していました。絶えず周囲の音を気にしているのです。

 私が紅茶を準備する、その些細な物音。窓の外で風が唸る、その低い音。そのひとつひとつに、M君は肩をびくりと震わせるのです。その痛々しいほどの怯えようは、尋常ではありませんでした。


 これは、M君がなぜそこまで音を恐れるようになったのか。

 その経緯について、震える声で語ってくれた、彼自身の言葉を私なりに再構成したものです。


 話の始まりは、現代に生きる我々にとって、ごくありふれた願望からでした。

 M君は、アルバイトで貯めたお金で、ずっと欲しかった最新のワイヤレスイヤホンを手に入れたのです。高価なものでしたが、彼が渇望したのはその音質ではありません。ただ一点、世界から音を消し去るという、「ノイズキャンセリング機能」でした。


 M君に言わせれば、我々の日常は音の暴力で満ちています。

 満員電車のレールが軋む耳障りな叫び。教室に満ちる、意味のないざわめき。街角で垂れ流される、聞きたくもない音楽。それら無数の音の礫から逃れるための避難所として、M君は自分だけの「静寂」を求めていたのです。


 初めてそれを耳に着け、スイッチを入れた時の感動を、M君はひどく虚ろな目で、しかし熱っぽく語ってくれました。雑踏の真っ只中で、まるで分厚いガラス一枚を隔てた別世界に転移したかのような、絶対的な静寂。自分の心臓の鼓動と、呼吸の音だけが支配する内なる宇宙。それはM君にとって、煩わしい現実から魂を守るための、小さな魔法のようでした。


 しかし、その完璧すぎた魔法が、彼の世界に癒しようのない亀裂を入れます。

 異変に気づいたのは、そのイヤホンを使い始めて一ヶ月ほどが過ぎた頃でした。


 いつものように、学校からの帰り道、M君はイヤホンで外界の音を遮断していました。商店街の喧騒、行き交う車の走行音。それらが綺麗に消え去った、その無音の領域の奥底から、何かを拾い上げていることに気づいたのです。


 それは「チリ……チリチリ……」という、説明の難しい、ごく微かな音でした。

 乾ききった昆虫の翅が擦れるようでもあり、古いラジオが遠い星の信号を拾おうとして失敗しているかのようでもある。そんな、有機的とも無機的ともつかない、不規則なノイズでした。


 もちろん、M君は最初、イヤホンの故障かと思いました。ですが、その仮説はすぐに否定されます。その奇妙なノイズは、特定の場所で、僅かにその輪郭をはっきりとさせたのです。


 例えば、多くの人々が行き交う駅前や、新しい商業施設の中ではほとんど聞こえない。しかし、M君の家の近くにある、古くからそこにある鎮守の森。その鬱蒼とした木々に囲まれた小道を歩く時。あるいは、再開発の波から取り残された、古いビルが密集する薄暗い路地裏に迷い込んだ時。

 そんな場所では決まって、あの「チリチリ」という音が、無視できない存在感を持って彼の鼓膜に残響しました。


 恐怖よりも先に、M君の心を占めたのは強烈な好奇心でした。これは一体、何の音なのだろうか。


 友人にその話をしても、「それ、ただの故障だって」「幻聴じゃないの?」と、一笑に付されるだけ。孤独感を深めたM君は、一人でその音の正体を探るようになります。放課後の街を、イヤホンをまるでダウジングの棒のように使いながら、ひたすらに歩き回る日々。M君はその微かなノイズを頼りに、より強く、より明瞭に聞こえる場所を探し求めました。

 それは、この世界の表面下に隠された、秘密の鉱脈を掘り当てる作業のようだった、と彼は言いました。


 そしてついに、M君は彼の住む街の中で、その音が最も強く響き渡る場所を発見したのです。


 それは、街外れにある、もう何十年も前に閉鎖された市民プールの跡地でした。


 錆びついたフェンスで閉ざされた敷地。そこには、白くひび割れたコンクリートのプールが、巨大な生物の骸のように横たわっています。ある夜、M君は心を決め、誰にも告げずに家を抜け出しました。冷たい金属の感触を掌に感じながらフェンスを乗り越え、その禁じられた場所に足を踏み入れる。月明かりだけが、苔むした飛び込み台の不気味なシルエットを、ぼんやりと照らしていました。


 ひび割れたプールの底に降り立ち、M君はゆっくりと、儀式のようにイヤホンを装着したそうです。心臓が早鐘を打ち、乾いた喉がひりつくのがわかった、と。

 そして彼は、ノイズキャンセリングのスイッチを、ONにしました。


 その瞬間に彼の鼓膜を突き破ったものを、M君はうまく言葉にすることができませんでした。「言葉にするのが、ひどく難しいんです」と、私の書斎のソファで、M君は何度もそう繰り返しました。必死に、記憶の断片をかき集めるように、いくつかの例えを口にしたのです。


 それはもはや、「チリチリ」というような可愛らしい音ではありませんでした。

 それは、何万何億という人間が感情なく囁き続ける声のようであり、またある時は、巨大なコンピューターの内部で膨大なデータが悲鳴を上げながら書き換えられ続ける音のようでもあった、と。


「音、というより、あれは…情報の洪水、そのものでした」


 M君はその場に膝から崩れ落ちました。吐き気を催すほどの、圧倒的な情報量。それは聴覚からだけでなく、脳の、意識の、存在そのものの中心に、無理やり流れ込んでくる感覚。その時M君は、恐怖と共に、ある冒涜的な直感を抱いてしまったそうです。


 僕らが普段「世界」として認識しているもの。聞いている音、見ている風景、その全てが、実はこの巨大で混沌としたノイズの上に薄く塗られた、一枚の絵の具のようなものに過ぎないのではないか。

 そして今、自分はこの世界の化粧を剥がし、その下にある、醜くも純粋な「素顔」を、聞いてしまっているのではないか、と。


 どれくらいの時間が経ったのか、M君には全くわかりませんでした。気づいた時には、東の空が鈍い灰色に染まり始め、小鳥の声が聞こえていました。イヤホンは、いつの間にか彼の耳から外れ、足元のひび割れたコンクリートの上に転がっていたそうです。


 私が話を聞いている間、M君は常にポケットに手を入れて、何かを固く握りしめていました。そして時折、その中から聞こえる微かな音に、安堵したような表情を浮かべるのです。それは、小さなポータブルラジオでした。電池式で、どの局にも合わせず、ただホワイトノイズだけを流し続けている。


 ええ、もうお分かりでしょう。あの夜を境に、M君の耳には、世界が以前とは全く違って聞こえるようになってしまったのです。あれほどまでに愛し、求めていたはずの「静寂」を、M君は病的なまでに恐れていました。


「静かな場所にいると、ダメなんです」

 M君はか細い声で、私に訴えました。

「耳を澄まそうとしなくても、聞こえてくるんです。静けさの中にいると、あの夜の音が、あの意味のわからない洪水が、耳の奥でどんどん大きくなってきて…。世界が軋むみたいな音が、また…」


 M君は片時も、自分の周りから音を絶やすことができなくなりました。

 自室では常にテレビとラジオをつけっぱなし。眠る時ですら、イヤホンでわざと激しい雨の音や街の雑踏の環境音を、大音量で流し続ける。そうして強制的に耳を別の音で満たしていないと、あの根源的なノイズの気配が、静寂の隙間から滲み出してきて、気が狂いそうになる、と。


 M君のその常軌を逸した行動は、やがてご両親の知るところとなり、心療内科を受診させられました。下された診断は、一種の聴覚過敏と、それによる深刻な不眠症。私の元を訪れたのは、医学では説明のつかないこの恐怖を、ただ誰かに聞いてほしかった、その一心からだったのでしょう。


 話の最後に、M君はカバンの中から例のワイヤレスイヤホンを取り出すと、まるで呪いの品に触れるかのように指先でつまみ、私の机の上に置きました。

「こんなものは、もう二度と使いたくない。持っているだけでも、思い出すから…」


 それが、私がM君から譲り受けた、このイヤホンです。

 見た目は、どこにでもある、ごく普通の製品でしょう?


 ……試してみますか?


 いえ、やはりやめておきましょう。

 もしかしたらあなたの耳には、何も聞こえないかもしれない。ただの故障品か、あるいはM君の心が作り出した幻聴のトリガーに過ぎなかったのかもしれませんからね。

 ですが、万が一、聞こえてしまったら?


 もし、あなたも彼と同じように、静寂を愛せなくなってしまったら……その時、一体どこへ逃げればいいのでしょう。


 この騒がしいはずの世界には、本当の意味で音から逃げる場所など、どこにもないのですから。

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