一人の作家の憑依録

 彼の耳に流れるエリック・サティの「ジムノペディ第一番」の旋律は、あまりにも薄く、その存在自体が一種の諦念だった。


 音符と音符の間の静寂が、まるで魂の空白地帯のように重く存在している。


 冬の昼下がり、誰もいない住宅街を覆うこの静けさは、彼自身の内側の無音状態をそのまま増幅した鏡だ。


 彼は黒のロングコートを纏い、黒のサングラスをかけていた。


 自分の存在を世界に透過させるかのように、シンジは静かにアスファルトの上を歩いていた。コートは、彼を世界という喧騒から隔てる重いシェルのようだった。


 太陽の光は、憎たらしいほど真上で、この世のすべてのものを無批判に肯定している。


 誰もいない家の窓ガラスは、その光を無表情に跳ね返し、シンジの視界には冷たい反射だけが残る。まるで、この街全体が、彼の内省のための巨大なセットであるかのようだ。


 彼は足を止め、ポケットの中でホット缶コーヒーの人工的な熱源を探った。黒い手袋の分厚い革越しでも、その熱はか細い生命の主張のように手のひらに伝わってくる。缶のプルタブを上げる僅かな金属音は、ジムノペディの旋律を小さな石で叩いた程度の衝撃しか与えなかった。


 彼は一口、その甘すぎる熱い液体を飲む。彼の舌に残るこの人工的な温もりだけが、彼の胸郭の中で鳴っているはずの、かろうじて動く心臓の拍動を外部から証明するものだった。


 彼は深く息を吸った。


 鼻腔には、彼が意識的に選んだ香水の、冷たく微かな甘さが漂っている。それは、「私がここにいた」という、風に溶ける前の最後の痕跡であり、過去の誰かであった名残りの幽霊だ。



「私は何者でもない。」



 役割も、信仰も、熱狂も持たない。この匿名性だけが、私という存在を規定している。


 十字架のネックレスが、コートの下で私の冷たい皮膚に触れる。


 それは、信仰を失った者がぶら下げる、無意味で冷たい金属の塊。その重さだけが、私の虚無の底を教えてくれる。


 シンジはタバコに火をつけた。


 ライターの着火音は、静寂の中では鋭い警報のように響く。吐き出された煙は、冬の冷気の中で急速に拡散し、彼の内面世界から解き放たれた、目に見える虚無となった。この小さな儀式によって、彼は静止点の儀式を完了させた。


 シンジは愛車――50ccの原付バイク――に腰を下ろした。それは決して速さや力を持つ乗り物ではない。しかし、その小ささと非力さこそが、彼と世界の距離感を保つための完璧な装置だった。


 彼はこのバイクを「愛車」と呼ぶ。


 なぜなら、この小さな機械だけが、彼という**「動く虚無」**を、批判も要求もせず、内面世界から次の場所へと運んでくれるからだ。


 彼は黒のフルフェイスヘルメットを装着した。視界は狭まり、外界との最終的な物理的遮断が完了する。ヘルメット内部の籠もった空気は、彼にとって**「無菌状態の意識」**の比喩だった。ジムノペディの旋律は、今や彼の耳の鼓膜ではなく、脳の深部で響いている。


 彼はキーを回し、キックペダルを深く踏み込んだ。エンジンが微かに駆動する振動が、彼の全身の骨の芯に伝わってくる。それは、彼の**停滞した時間に、小さな、しかし決定的な「速度」**を与える合図だった。


 彼は穏やかにスロットルを回した。愛車は、路面に薄く敷かれた油のように静かに滑り出し、時速三十キロの瞑想を開始した。彼の運転は、その内面と同様に、平穏で余計な摩擦を生むことがない。


 緩やかなカーブを曲がりきったとき、静止した風景の中に、強烈な「動」の点が視界に入った。


 アスファルト舗装の広い駐車場。その空間の真ん中で、一人の少年が遊んでいた。鮮やかな赤いゴムボールを、コンクリートの壁に向かって、一切の迷いなく投げ続けている。その動作は、まるで世界に存在しない誰かとの、完結したキャッチボールのようだった。


 シンジの耳には、少年のボールが弾む音は届かない。しかし、その**「音のない」光景**が、彼の内側の静寂に、巨大な波紋を立てる。


 あの少年には、「何者でもない」という暇がない。彼は、ボールを投げ、受け取るという『たった一つの役割』の中に、その全身と全意識を溶け込ませている。彼の存在は、彼の呼吸と同じように無意識的で、無防備で、そして強烈な『個』のエネルギーに満ちている。


 作家としての魂が、静かに、しかし激しく震える。私はあの少年の皮膚の下に入り込み、あのボールの重さ、投げつけた後の肩の筋肉の弛緩、壁から跳ね返る弾道の予測を、彼の身体の奥底で感じたい。私にはない、あの強烈な存在のリアリティを、一時的にでも『憑依』して獲得したい。


 愛車は、その欲望の炎を静かに包み込みながら、少年の遊び場から数メートルの距離を、音もなく、空気の断層のように通り過ぎた。少年は、彼にまったく気づかない。彼は、彼の世界の中で完全に充足している。


 シンジは愛車を走らせながら、少年の**「強烈な個の残響」が、逆に自身の「空虚さ」**を痛烈に突きつけるのを感じていた。彼は、この「憑依」の切望の裏に、過去に自分が誰かの隣で「何者かであった」記憶への回帰願望があることを悟る。


 微かに湿った地下の駐車場の匂いが鼻腔をかすめた。その途端、彼のコートに残る香水の残り香が、遠い過去に別れた彼女が愛用していたシャンプーの匂いと一瞬、脳内で混合した。


 その瞬間。愛車の微かな振動が、冷たいシートの上で最も密着していた過去の肌の温もりという、極めて親密な記憶の感覚と重なった。



 視界が、一瞬、白く弾けた。



 シンジは、自分が今もヘルメットとロングコートを着ていることを忘れた。彼の脳内には、ジムノペディの穏やかで諦念に満ちた旋律が流れ続けている。だが、彼の身体は、その旋律とは完全に無関係に、激しく、音もなく動いていた。


 彼は、過去の**「愛する者」**という、何者でもない自分から最も遠い「個」に、冷徹な観察者として憑依していることを自覚した。彼女の肌の温度、汗の粒、シーツのざらつき... すべてが、音のない、スローモーションの映画のように彼の意識に焼き付いた。彼は、**その熱と存在感の「真実」**を奪い取ろうとしていた。



 彼女の唇から、音のない、切実な何かが溢れ出した瞬間、視界は再び白く弾け、収束した。


 回想は一瞬、別の場所へと飛んだ。石畳の薄暗い通り。シンジは黒いコートを着て、既に彼女に背を向けていた。


 彼は振り返らない。しかし、彼の目の端が、彼女の存在を捉えていた。


 彼女は涙で顔を濡らし、唇を大きく開いていた。その口の動きは、確かに**「シンジ!」**と、彼の名前を、音のない、しかし全身の魂を絞り出した悲鳴として叫んでいる。


 彼は、その叫びを「聞かなかった」のではない。ジムノペディの旋律が、その叫びの音波を、彼の意識に到達する前に『冷徹にろ過した』のだ。


 シンジは、彼女のその涙と、音のない悲痛な顔に、「愛する者」という強烈な個の終焉を見た。そして、その叫びから逃れるように、ただ歩き去った。


 視界は収束し、シンジは、自分が今も黒いヘルメットとロングコートを着ていることを思い出した。彼の身体は、愛車の上で、時速三十キロの速度を保ち続けていた。


 彼は、過去の**「愛された者」という強烈な「個」にも、完全には憑依しきれなかったことを悟る。あの激しい行為の「音のない残響」と、その後の「音のない切実な叫び」**だけが、ジムノペディの静寂の中に取り残されていた。


 愛車は静かに走り続け、ジムノペディの旋律が彼女の最後の呼吸を飛び越えた。その旋律は、数千キロメートルの空間と、数年という時間を、彼の意識の中で一瞬にして圧縮した。


 シンジは、湿潤な空気を持つ、石造りの古い海外の墓地に立っていた。


 彼の足元には、苔むした石碑が幾つも並び、遠くの教会の鐘の音が、ジムノペディの旋律と調和する、哀悼の和音のように響いていた。


 彼は黒いコートのまま、サングラスを外し、その視線を彼女の墓石に注ぐ。墓石に刻まれた彼女の名前は、彼女が**「何者であったか」**を、冷たく、静かに示していた。


 シンジは、手袋を外し、むき出しになった指先を墓石の冷たい石の表面に触れさせた。


 その石の質感は、愛車の上で感じたホット缶コーヒーの失われた熱、そして彼女の肌の失われた温もりと等しい、世界の最終的な冷たさとして、彼の手のひらに伝わってきた。


 彼は、この**「死」という最も決定的な他者に、憑依しようと試みた。彼女の最後の感情、最後の光景を、その冷たさから読み取ろうとした。しかし、指先に伝わるのは、ただの永遠の静止**だけだった。


 その墓石は、彼に、「誰かの愛する者」であった自分自身が、二度と蘇らないことを、静かに、そして決定的に告げていた。


 彼は、過去の「愛」にも、現在の「生きた個」(少年)にも、完全には憑依できないことを悟った。彼の探求は、**永遠に手が届かない「真実」**を求める、孤独な旅にすぎない。


 シンジは再び手袋をはめた。


 彼は、ホット缶コーヒーの熱が完全に失われたことを知覚する。その熱の不在は、彼の**「私は何者でもない」という虚無の確信**を、冬の冷たさとして決定づけた。


 愛車は、もうそこにない。シンジは、墓地の圧倒的な静寂と、ジムノペディの永遠の諦念を背負い、ただ一人、墓地の門へと向かって歩き出す。


 彼の心の中で、ジムノペディの旋律だけが、彼の孤独な魂の唯一の呼吸として響き続けていた――。

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