静寂の座標
奈良の一軒家、二階建ての家の奥。宵闇に沈みゆく四十七歳の男の部屋に、エリック・サティの「ジムノペディ」の旋律が、霧のように薄く、しかし確かな存在感を持って漂っていた。
窓の外は、生駒の山の稜線が夜の帳に溶け込む寸前の、青磁色(せいじいろ)の空。男の住む一戸建ては、これまで歩んできた壮絶な人生の旅路の果てに、ようやく手に入れた「沈黙の砦(とりで)」のようだった。部屋には余計なものはなく、削ぎ落とされた空間が、サティの音楽のミニマリズムと共鳴している。時折、遠くで通過する車の音が、この深い静寂を逆説的に強調する。
男の心には、過去の人生のフィルムが、セピア色に加工されながらも、鮮明に焼き付いていた。
「人とは違う人生を歩んできた」
その道のりは、平坦どころか、まるで砕けたガラスの上を裸足で歩くような「苦」の連続だった。しかし、男を突き動かしたのは、誰に言われたわけでもない、内なる**「好奇心」という名の獰猛な羅針盤だった。普通というレールから逸脱するごとに、彼は深い孤独と引き換えに、自ら生きていることの『証(あかし)』**を手に入れた。
「苦」が多かった人生。だが、その「苦」は、今となっては、彼の存在を形作る分厚い年輪となって、静かに彼を支えている。47歳という年齢は、激流から身を引き、流れの淀みに安息を見出したかのような、静かな達成感を伴っていた。
サティのピアノの音は、耳から入るだけでなく、空気そのものが震え、肌に触れる薄い絹布のようだった。
ジムノペディ第一番、ゆっくりと苦しみをもって。
その旋律は、彼の過去の苦渋に満ちた決断一つ一つを、そっと撫でるように流れていく。男の口内に、冷たい水を一口飲んだ後のような、鉄と孤独が混ざったような味が広がる。それは、数々の試練を乗り越えてきた者だけが知る、静かな充足感の味だった。
彼の人生の遍歴は、例えるなら深い海の底を泳ぐダイバーのようだった。
地上(普通の世界)の喧騒から離れ、冷たく暗い深海を潜り続けた。光は届かず、「苦」に包まれていた。だが、彼にとって「人とは違う人生」とは、その深海の底に沈んだ**「自分自身の望み」という名の、微かな太陽**であった。その光だけを頼りに泳ぎ続けた結果、今、彼は水面に上がることなく、深い場所の静けさの中で、安らぎを得ている。
(……彼の静寂は、敗北ではなく、過酷な闘争の末に勝ち取った、比類なき勝利の勲章であった。)
その時、朝から降り続いていた雨が、まるで舞台の幕が引かれるかのように、音もなく、ぴたりと止んだ。
男は、サティの旋律に身を預けたまま、反射的に窓の外に視線を向けた。生駒の山はまだ灰色の霧に包まれていたが、分厚い雨雲の端が裂け、そこから白い光の刃が、一瞬、部屋の隅を切り裂いた。光には、水を含んだ土の匂い、そして微かに苔むした古い木の匂いが混ざっていた。
「わかってるじゃないか、神よ」
乾いた唇から、無意識の傲慢さが零れ落ちる。それは、数々の修羅場をくぐり抜けてきた者だけが持つ、運命さえも掌握しようとする孤独な王者の皮肉だった。だが、その声は、ガラスに反射して戻ってくる自分のものだというのに、どこか聞き慣れない響きを帯びていた。
すぐにまた降り出すかもしれない。彼は立ち上がる。長い瞑想から解き放たれた肉体が、軋むことなく静かに体重を支えた。
部屋にはまだ、エリック・サティの「ジムノペディ第一番、ゆっくりと苦しみをもって。」の残響が、壁に貼り付いたように留まっていた。男はそのタイトルを口の中で転がす。
「ゆっくりと苦しみをもって」――それは、彼の人生をそのまま音符にしたような言葉だ。
だが、今日、この瞬間、その音色は単なる共感を超えた。それは、魂の最も深い箇所に埋め込まれた錆びついた鍵穴に、静かに嵌り込む真鍮(しんちゅう)の鍵のようだった。
皮膚の裏側を這い上がるような、冷たく粘りつく戦慄が全身を貫く。これは音楽ではない。これは、**『魔力』**だ。聴く者の内面を揺らし、安息という名のぬるま湯から引きずり出す、甘く恐ろしい誘惑だ。
その『魔力』が引き金となり、男の意識は、それまで緻密に構築してきた「47歳で手に入れた静かな達成感」の城壁を突き破った。
彼は再び椅子に腰を落とす。心臓が、サティの単調なリズムに合わせて、不自然なほど緩慢な拍動を刻み始めた。
「どうして、私はここにいるのだろう?」
「ここ」――それは場所ではない。この家、この奈良の静寂、この47歳という年齢、そして「過酷な闘争の末の勝利」という自己認識の座標そのものだ。
その座標軸が、根元から震え、溶け始める。
『私はなぜ、こんな生き方を選んだのだろう?』
彼は、喉の奥に鉄塊が詰まったような感覚を覚えた。同時に、口内に鉄と孤独が混ざったあの味が、今や生臭い血の味を伴って鋭く広がる。それは、充足感ではなく、覚醒の痛々しい印だった。これ以上、この問いを進めてはならない。それは、目の前の静寂の床下に眠る、恐ろしい真実の蓋を開ける行為だ。蓋を開ければ、彼は、今いる場所からも、積み上げた「勝利の勲章」からも、全てから突き放されてしまうだろう。
「いや――。やめておこう。これ以上、進むのは危険だ」
恐怖が、彼の思考を鋭い棘で縛り上げた。
今、言えることは一つだけ。それは、冷たい地下水のように、彼の内面から湧き出してきた、純粋な恐怖の結晶だった。
「私は何者なんだ?」
彼には過去の記憶がない。断片的な残像はあれど、人生という名の分厚い本の、大半のページが欠落している。そこにあるのは、自分ではない誰かの意思、誰かの魂が、彼の身体という薄い皮の器に乗り移っているような、拭い去れない異質な気配だった。
最近の不可解な出来事。偶然にしては出来過ぎている**「予知された偶然」。まるで自分が、既に知っていたシナリオを演じているかのように、『それ』**を正確に実行してしまう。
あの時の決断。この静寂の砦を手に入れた行為。全てが、誰かの差し金であり、用意周到な罠であるような気がしてならない。
『もう、やめておこう。』
男は、乾いた掌で顔を覆った。
長い夢を見ていたような気分だ――。
周囲の静寂が、まるで自分を包み込む巨大な水槽であるかのように感じられた。水槽の底で、安堵という名の微睡(まどろみ)に浸っていた。だが、今、水面に亀裂が走り、冷たい空気が流れ込んできた。
そして今朝、その偽りの夢から目覚めた。
男の体内に宿った「何者か」が、静かに、しかし有無を言わさぬ力で彼の右手を動かす。その手は、デスクの引き出しへ、迷いなく、まるで元々そこに何があるかを知っていたかのように伸びていった。
次の行動を待っている。
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