P-036(37歳)言い忘れたこと ― 最後の赦し

通信室の空気は、いつもより重かった。


ノイズが多い。

波形が安定しない。

“聞こう”とすると、逃げていく。


(……今日は、だめだ)


ミカはメモを取ろうとして、手を止めた。


(ペン……)


一瞬、頭の中が白くなる。


(ロッカさんの部屋だ)


この前、先生――カインさんに借りたもの。

返しそびれて、そのままになっていた。


(……取りに行くだけ。すぐ戻る)


言ったら、「今じゃない」と言われる。

だから、言わない。



---


ロッカの部屋は、静かだった。


物は少ない。

でも、少なすぎて落ち着かない。


ここは「住んでいる部屋」じゃない。

「戻る場所」になりきれていない部屋。


(……まだ、全部終わってないんだ)


机の端に、ペン。


手を伸ばした瞬間――


「……ミカ?」


声。


振り向くより先に、心臓が跳ねた。


「ろ、ロッカさん!?」


そこにいた。


訓練後の匂い。

殴り合ったあと特有の、乾いた熱。

義手を外しかけたまま、動きを止めている。


「忘れ物か」


「は、はい! すぐ出ます!」


声は出るのに、足が動かない。


(なんで……今なの……)



---


沈黙。


急かされない。

逃げられない。

視線を逸らされない。


――“待つ”目。


その目を見た瞬間、

ミカの胸の奥で固めていた言葉が、勝手に崩れた。


「……聞いちゃった。ごめんなさい」

「でも、黙ってるのも……ミカ、もう嫌で」



空気が変わる。


「……あの日のこと」


命令詩。

最後のボタン。

世界が壊れた瞬間。


「パパと……ママのことも」


ロッカの呼吸が、わずかに浅くなる。


ミカは知っている。


弟のタクミを失った日。

妻のミラを失った日。

息子のレイを失った日。

義妹のルカを失った日。


全部。


泣いた背中も。

何も言わなくなった夜も。

食べられなかった日も。


(ミカは、ずっと一緒にいた)



---


「……全部、聞いて」


ミカは一歩、近づいた。


逃げられない距離。


「それでも……ミカ、決めたんです」


喉が震れる。

でも、止まらない。


「……ロッカさんを、ひとりにしない」


その言葉が、部屋に落ちる。


重い。

軽いわけがない。


---


――ひとりにしない?

そんな資格、俺にあるのか。


胸の奥が、痛みに軋む。


---


ミカは続けた。


「誰よりも長く、一緒にいたもん」


小さく。

でも、はっきり。


「ロッカさんが……

 誰よりも、あの人たちのことを

 大事にしてたの、知ってる」


胸の奥が、きしむ。


「優しいところも……

 全部、自分のせいにするところも……

 夜、ひとりで泣くところも……」


ミカは、思わず少しだけ笑った。

泣きそうなのを誤魔化す笑い。


「ミカね。

 “壊した世界”より、

 “守ろうとしてた世界”を知ってる」


ロッカの視界が、揺れる。


(……そんな顔で、言うな)



---


「世界は……」


ミカは一度、深く息を吸った。


「世界は、ロッカさんの

 “優しい祈り”を、待ってると思う」


祈り。


命令じゃない。

押しつけでもない。


「もう一度、

 誰かのために呼吸する、その声を」


ロッカは、言葉を失った。


赦しじゃない。

免罪でもない。


――これは、託された。


「……ミカ」


呼ぼうとして、詰まる。


その瞬間、ミカが我に返った。


「あ」


顔が熱くなる。


「や、やば……

 これ以上いると、先生に怒られる!」


ペンを掴む。


「じゃ、じゃあ……!

 通信、戻ります!」


後ずさりしながら、慌てて言う。


「……言い逃げみたいでごめんなさい!

 でも……言いたかっただけなので!」


扉の前で、一度だけ振り返る。


「ロッカさん」


小さく。

でも、まっすぐ。


「生きててください」


それだけ言って、ミカは走り去った。



---


扉が閉じる。


静寂。


ロッカは、その場に立ち尽くしたまま、

義手を強く握った。


赦されたからじゃない。


――生きる理由を、渡された。


弟も。

妻も。

子も。

義妹も。


すべてを失った、その先で。


それでもなお、

自分を見ている“この子”がいる。


ロッカは、静かに息を吐いた。


(……ああ)


世界は、待っているのかもしれない。


優しい祈りを――

自分が、もう一度、選び直す日を。



---


📓〈ミカ記録ログ036〉

・忘れ物:ペン(回収)

・想定外:ロッカさん在室

・言ったこと:重すぎた気がする

・でも:

 あれは、ミカの本音

・結論:

 赦すって、忘れることじゃない

 それでも一緒に生きるって、決めること

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