P-017(26歳)報せ ― 町に残った風

基地の廊下は、まだ生きていた。



白い灯り。

消毒液の匂い。

どこかで機械が規則正しく鳴っている。



俺はふらつきながら歩く。

左腕は肩の少し下で、きれいになくなっていた。

包帯が熱い。

いや、熱いふりをして、何もない場所のかわりをしているだけだ。



「おい、担架! 血圧落ちてる!」



声が飛ぶ。

白衣が動く。

誰かが俺からミカを抱き取ろうとする。



「待て」



声がかすれる。

離したくない。

離した瞬間に、全部が本当に終わる気がした。



「大丈夫、大丈夫だよ。預かるだけ」



若い衛生兵の女が言う。

腕は震えていない。

目だけが、ひどく疲れている。



「この子は?」

「……家族の娘だ」

「熱が高い。まずこの子を冷やす。あなたは、腕の治療」



俺は、ミカの額に指を触れる。

熱い。

それでも、息はある。

それを確かめてから、やっと手を離した。



ミカはうわごとのように呟いた。



「……レイ……」



喉が詰まる。

言葉にならない音だけが漏れる。



ストレッチャーに押し込まれる。

白い天井が流れる。

灯りがひとつ、またひとつ、後ろへ通り過ぎる。



切断面の処置。

麻酔。

焼ける匂い。



「ここまでよく歩いて戻ったな」

「あと数時間遅ければ」



いくつかの声が飛ぶ。

全部、遠い。



眠りと意識の間を、何度か浮き沈みする。

そのたび、タクミの声が蘇る。



> 『ミカを……頼む。……上へ』



上。

灰。

それでも、風はどこかで息をしてる――か。



目を覚ましたとき、灯りは少し暗くなっていた。

左肩の痛みは鈍く、重い。



横を見ると、カーテンの向こうで小さな影が丸くなって眠っている。



ミカだ。

点滴の細い管。

額の熱は少し下がっている。



「腕の具合は?」



カーテンの向こうから声。

医療班の男だ。



「付いてないが」

「付けられもしないさ。死んだ腕は連れて来れない」

「……そうだな」



乾いた冗談。

笑えない。

笑ったら崩れる。



「塔は?」



「……知らない方がいいかもしれないが、言っとく」



男は短くため息を吐いた。



「さっき、全域回線が一斉に切り替わった。塔、沈黙だ」



「沈黙?」



「まだ立ってる。けど、あいつから何も出てこない。命令も、詩の返事も」



「止まったのか」



「理由は誰にも分からん。ただ、外気は……さっきより悪い」



外。

胸がざわつく。



ミラ。

ルカ。

レイ。

タクミ。



「歩けるか?」

「歩く」

「どこへ」

「……町だ」



医療班の男は、しばらく黙って俺を見た。

その目は、「やめろ」と言いながら、「止められない」とも言っている。



「ミカは、ここに置いていけ」

「分かってる」



右手でミカの頭を撫でる。

短い髪。

うわごとで誰かの名を呼ぶ声。



俺は、その全部を一度だけ胸に押し当てる。



「すぐ戻る」



ミカは知らない。

俺自身も、ほんとに戻ってこれるかは分からない。

それでも言う。

約束は、今の俺に残された唯一の詩だ。



---



基地を出ると、空は前より低くなっていた気がした。



灰の層が厚い。

光が割れずに、上からまとめて押しつけてくる。



喉が少し痛い。

一度、咳が出た。



町までの道は覚えている。

足が覚えている。

帰省のたびに通った道。

あの日、ミラとレイを基地から見送った道。



いまは瓦礫とクレーターで、少し形が変わっていた。

それでも、地面の傾きは変わっていない。

あの角を曲がれば、町だ。



---



町は、燃え尽きたあとだった。



家の壁が途中でちぎれたまま止まっている。

窓ガラスは全部割れ、屋根は半分だけ残っている。



それでも、完全な死ではない。

どこかから、人の声がする。



地下への扉。

避難シェルターの標識。

〈市民退避区〉の文字。



扉は開いていた。

中から、息の気配がする。



階段を降りる前に、あたりを見渡す。



道端に置かれた水のポリタンク。

血のついた毛布。

折れた担架。



――助けようとした跡。



「ロッカさん……?」



背中越しに声が落ちてきた。

振り向く。



目の前に、小さな影。



「……シア」



ミカといつも一緒にいた、隣家の娘。

頬に煤。

腕に包帯。



それでも目は、潰れていない。



「やっぱりロッカさんだ……」



シアは息を飲んで、じっと俺の左肩を見た。



「あの……その腕……」



「道に置いてきた」



「……そう、なんだ」



沈黙。

どちらも、次の言葉を探す。



俺の方が先に折れた。



「ミラと、ルカは」



シアの目が揺れる。

けれど、逃げない。



「……避難、手伝ってた」



声が震える。

でも、ちゃんと前を見て話している。



「最初は、みんなパニックで……押し合って、泣いて、叫んで……」

「想像はつく」



「ミラさんが、一番前で扉のところに立って、『ゆっくり』『押さないで』『順番』って、ずっと言ってた」



耳の奥で、ミラの声が浮かぶ。

落ち着いていて、少し冗談みたいで、人を責めない声。



「……怒らなかったのか」

「うん。笑ってた」



シアは、ぽろりと涙をこぼした。



「最後まで、笑ってた。『大丈夫、まだ風は残ってるから』って」



胸がひび割れるように痛む。

俺が止めた風を、ミラはまだ信じていたのか。



「ルカは?」

「ミラさんの、ちょっと後ろ。遅れてきた人たちを奥に押し込んでた。『怖くないよ、大丈夫だよ』って、ずっと同じこと言ってて」

「怖かったろうに」

「でも、あの人が嘘ついてくれなかったら……私、ここにいない」



その一言で、喉が詰まる。

無意味な死なんて、どこにもなかった。



「……どこだ」

「え?」

「ふたりは、どこに」



シアは黙って階段の脇を指差した。



壁際。

毛布が二枚、静かに重ねられている。



近づく。

膝をつく。



布の下の形で、誰かが誰かを守るように抱き合っていたことが分かった。

手を伸ばせば、きっと崩れる。

だから、触れない。



「……そうか」



それしか言えなかった。



「レイは?」



名前を出すのが怖い。

シアは首を横に振る。



「扉の手前まで一緒だったの。私の手、すごい強く握ってて」

「レイが?」

「うん。『行け!』って。初めてあんな声で怒られた」



少し笑ったあと、すぐに泣きそうな顔に戻る。



「押し出されて……振り返ったら、もう見えなかった。煙と、人で」

「誰か、見ていないか」

「……誰に聞いても、『あの子ならきっとどこかで風に乗ってる』って、そんなことばっかりで」



レイの行方は、どこにもなかった。

だから、俺はきっと墓を作る。

まだ見つかっていない風のための場所を。



---



シェルターの中は、思っていたより人がいた。



床に並んだマット。

壁にもたれる老人。

肩を寄せ合う母親と子ども。



誰も元気ではない。

でも、誰も完全には死んでいない。



町長がいた。

戦争前から変わらない、少し猫背の男だ。



「ロッカ君……戻ってきたのか」

「ええ」



「ミラとルカが命を張らなかったら、この人数は揃っておらん。あの二人は……」



言葉が詰まる。

町長は目頭を指で押さえ、深呼吸した。



「……立派な死を、選んでくれた」



その言葉に、俺はうなずくことしかできない。



しばらく、生存者の顔を見て回る。

傷。

咳。

乾いた咳が多い。



喉を刺すような空気。

このままここにいたら、じわじわと削られる。



決めるのに、時間は要らなかった。



「町長」

「なんだね」



「基地の地下が、生きてます」



「……本当か」



「上は焼けましたが、下はまだ電気も水も動いている。避難層も広い」



一瞬、空気がざわついた。

皆、聞かないふりをしながら聞いている。



「塔が止まって、ミサイルの雨は終わった」

「……」



「でも、この空気はこれからもっと悪くなる。地表に残れば、いつか肺から先にやられる」



俺は喉の痛みを意識して、わざと一度咳をした。



「基地の地下に移るなら、今のうちだと思います」



「……君は?」



町長は、まっすぐに聞いてくる。



「君も一緒に来ないのか、ロッカ君」



「……まだ、やることがあります」



ミラ。

ルカ。

タクミ。

レイ。



町長はしばらく俺を見つめ、それから小さくうなずいた。



「分かった。信じよう」

「輸送手段は?」

「古いトラックが一台。あと歩ける者は歩くしかない」



「地図を書きます。途中で灰が濃いところを避けたルートを」



俺は紙をもらい、簡単な線を引く。

昨日まで兵が使っていた補給路。

まだ、道の形が残っている。



「ミカも、一緒に……?」



シアが不安そうに俺を見る。



「ミカは、もう基地にいる。先に待っている」

「そっか」



シアの目に、わずかな光が戻る。

この子も、あの地下へ行く。

ミカの隣で、またくだらない話をして笑う日が、もしかしたら来る。



そのために、俺はここに残る。



---



準備は静かに進んだ。



必要なものだけを袋に詰める音。

靴を履き直す音。

子どもを背負う音。



誰も大声を出さない。

ミラとルカが作ってくれた“この静けさ”を、壊したくないのだろう。



入口の近くで、シアが立ち止まる。



「ロッカさん」

「なんだ」



「……ミラさん、最後まで笑ってたよ」



さっきも聞いた言葉。

それでも、もう一度聞きたかった言葉。



「扉が閉まる直前に、こっち見てね、

 『風はさ、しぶといから』って」



喉の奥が熱くなる。

でも泣かない。

泣けば詩が出る。

詩はもう、世界を壊す。



「ちゃんと、覚えとく」

「うん」



シアは小さく頭を下げて、列に戻った。



---



地上に出ると、空の色が少し変わっていた。



灰が前より細かく、喉に刺さる。

それでも、まだ“刺さる”程度だ。



これがそのうち、皮膚を切り始めるのだろう。

説明はいらない。

空気が教えてくる。



トラックのエンジンが、かろうじてかかる。

歩けない者を乗せ、歩ける者はその横を歩く。



「本当に、基地の地下は生きてるんだな?」



町長が念を押すように言う。



「ええ」



「見たのか」



「さっき、医療室まで」



「……そうか」



信じるしかない。

信じなくても、この空の下には未来がない。



「ロッカ君」

「なんです」



「君が塔と戦ってくれたかどうかなんて、私には分からない。

 だが……」



町長は一拍置いてから続けた。



「君の家族がしたことは、ここに残っている」



背中の方で、小さな子どもが泣き出した。

すぐに誰かが抱き上げる。

泣き声が、風の代わりに空に昇っていく。



---



列が動き始める。

灰を踏む靴音。

遠ざかっていくエンジン音。



俺は動かない。



シアが一度だけ振り返る。

小さく手を振る。



俺は頷くだけにした。

手を振ると、手の先がなくなったことを自分に突きつけるから。



人の列が、灰の向こうに溶けていく。

塔の影とは逆方向へ。

生き残った風の一部が、地下へと移ろうとしていた。



静かになった広場に、俺だけが残る。



崩れた時計台。

黒く焼けた噴水の跡。

毛布の下で動かなくなった二人。

行き先の分からない息子。



「……さて」



声に出してみる。

誰も返事はしない。



体が重い。

胸の内側が、それ以上に重い。



俺は一度だけ空を見上げる。

灰の天井。

その向こうになにがいようと、今は関係ない。



右手のひらを、ゆっくり握る。



穴を掘る場所は、もう決めてある。

レイがよく水を蹴っていた噴水の跡。

ミラとルカが、よく腰掛けていたベンチのそば。



そこに、四つ。



俺は灰を踏んで歩き始めた。



埋葬の夜が、ようやく近づいてくる。



地下に眠らせた弟を、もう一度迎えに行かなければならない。



---



📓〈ロッカの記録ログ017〉

・今日の記録:基地医療層生存確認/町地下シェルター稼働確認。

・報せ:ミラとルカ、避難誘導中死亡。レイ消息不明。町民多数生存。

・提案:町民一部、基地地下へ移送開始。

・言葉の断片:

 「最後まで笑ってた」

 「風はさ、しぶといから」



> ――風よ、奪われたものを数えるだけじゃなく、残ったものの方も、いつか数えさせてくれ。

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