「……お前、何なの。幽霊ってやつ?」

「おじさん、そういうの信じるタイプなんだー?」

 真夜中の野外を、ランタンひとつで歩く。トレッキングポールで石橋を叩くように進む俺に対し、女の子はどこに何があるか分かっているかのように、すいすい先導する。

「幽霊は否定もしねえが肯定もしねえ。でもお前みたいな能天気なのは、認めたくねえ」

「よく言うよね。うちの親戚連中にビビりまくってたくせにー」

「あれ、親戚なのか。家庭環境最悪だな」

俺の言葉に、女の子が何がおかしいのか、ゲラゲラ笑う。一応、さちこという名前だと教えてもらった。

 さちこ。幸せな子と書くのだろう。俺と真逆の名前だ。

「おじさん、何か食べ物持ってない? 腹へっちった」

「食いもん食い始めたら、本格的に幽霊じゃねえぞ、お前」

 リュックからようかんを出して渡すと、開け方が分からないと言う。包装をちぎってやると、一口ほおばるや、文字通り飛び上がった。

「うめえー! ナニコレ、初めて食べたー! 激うまー!」

「ようかん食ったことねえって、お前、何時代の人間だ?」

「刺激物は食べちゃダメなんだよ、あたしたち。宗家そうけさんに言われてんだ」

 宗家。俺は闇の中を踊り回るさちこを必死にランタンで照らしながら、訊いた。

「宗家って何だ? 一族の本筋の家ってことか? そいつらがようかん食うなって言うのか?」

「無くなっちゃった。もっとくれー」

 俺はぬるくなった炭酸入りのスポーツドリンクを渡した。炭酸飲料も初めてらしく、目を丸くして口いっぱいに含んだり、うがいをしたりして遊ぶ。

「この村はあたしが生まれる前に、宗家さんに買われたんだ。えらーい坊さんたち。もともと住んでた人はみんな『にゅーしん』しちゃったの」

「にゅーしん? 入信か。つまり外部から来た宗教団体に、村ごと取り込まれたってことか」

「村の土地を大金で買ってもらって、道路とか通してもらったらしいよ」

 話に熱中したせいで、草に隠れたドブ板を踏み抜いてしまった。水は溜まっていなかったが、得体の知れない汚れがズボンにつく。俺はドリンクの空容器を放り捨てるさちこに、賄賂のようにチョコビスケットの箱を差し出して問いかける。

「俺をどこに案内してるんだ?」

「独覚堂(どっかくどう)。宗家さんの聖域だよ」

 うめえー! と叫ぶさちこの指が、闇の彼方を指し示した。高い木々を縫うように歩き続けると、やがて黒くそびえ立つ建造物にたどり着く。全容は分からないが、入口は仏教の臭いのまったくしない作りだった。

 ランタンの光に照らし出される大扉は、どす黒く、木製なのか鉄製なのか判然としない。太い取っ手のそばには脳味噌の彫刻が出来物のようにへばりついていた。徳を感じさせない、程度の低い異端の臭いがする。警察はこの建物に気づかなかったのか? 俺はさちこを振り返る。

 さちこはビスケットの箱をポイ捨てし、俺に片手を差し出している。缶の緑茶を渡しながら、俺は疑わしげな目を向けた。

「この中に本当に写真のやつらがいるんだろうな」

「いるよ。でも中から出て来れない理由も一緒。おじさん、ミイラ取りになっちゃうかもね」

 俺は取っ手を力いっぱい引いた。大扉は意外にもまったくきしみを上げず、無音で隙間を空ける。身をすべり込ませると、案の定、真っ暗だった。ランタンを掲げると、後ろにいたはずのさちこの顔が出てくる。

 思わず声を上げると、さちこが積み上がった犬用のケージの中で頬杖をついた。さちこの入ったケージには、南京錠がかかっている。

「そんなに大事なんだ。写真の子」

「……三〇〇万もらったからな。ギリギリまでがんばる」

「大事なのはお金だけ?」

 闇を裂いて進むと、またさちこの顔が出てきた。趣味の悪い頭部のみ白骨化した仏像の足にもたれかかり、俺を見てにやっと笑う。

「見つからなかったことにして帰っちゃえば、楽にお金だけもらえるじゃん」

「それはダメだな」

「なんで?」

「俺は正直で優しい、善い人だからだよ」

 闇を進むと、頭上からさちこが降ってきた。床に炸裂する肉体にさすがに気を呑まれると、血まみれのさちこが床に這いつくばりながら、にやっと笑う。

「死人と会話しちゃってる時点で、そーとーおかしいよ、あんた。今すぐ心のお医者さんに診てもらったほうがいいって」

「……俺は失踪者が出る森の奥でわざわざ発狂するような、間抜けなのか? そんな馬鹿はどんな名医にも治せないさ。社会に戻っても迷惑になるだけ。ここにいたほうがマシだな」

「出たあ~。都合悪いことを都合よくカイシャクする、大人のギマン~」

「うるせえな。だいたい写真の子と会わせるって言い出したの、お前のほうだろ」

 俺はズタズタのさちこをほうって行くのに気が引けて、先に進む足をにぶらせた。その足に、何かが、しがみつく。

 視線をやれば、やはりさちこで、どこもケガをしていないピンピンした姿でニヤけている。血まみれのほうを振り返れば、跡形もなく消えていた。俺はさちこの体重を感じながら、無理やり足を進める。さちこが俺のズボンをガジガジとかじりながら言った。

「帰ったほうがいいってー。この先にいる連中、あたしみたいに無害じゃないよ。死んじゃうよ、死ぬ死ぬって」

「そんな危ない所にいるんなら、ますます迎えに行ってやらなきゃだろ。もう死んだんならしょうがねえが、まだ生きてんなら、見捨てるわけにはいかん」

 さちこの表情が消えた。

 さちこの大きな黒い目が、俺の何かを見定めようとしている。彼女の視線と体重が苦痛に感じ始めた頃、前方から薄赤い光が差した。近づくと大扉があり、その隙間をくぐれば、異様な広間に出た。天井にはまった赤い色ガラスの向こうに何らかの照明があり、広間全体を赤く染めている。

 広間の中央には巨大な穴が空いていて、その周囲にさちこと会った家で見たのと同じ仏壇が、無数に設置されている。

 突然さちこが走り出し、仏壇のひとつに手をかけた。仏壇の中の、確か蹴込(けごみ)という名の部分を押すと、中身全体が奥へと下がっていく。大きな仏壇の中に、空洞が生まれた。

 ランタンを入れて調べてみると、真上に縦穴が空いていた。人ひとりがちょうど通れるくらいの大きさだ。こおお、と、風の音がする。さちこが俺の胸を押しのけるように入ってきて、穴を指差した。

「あたしの家の仏壇につながってるんだ。村の全部の家に仏壇があって、どれもこの聖域、独覚堂に続いてる」

「何のために?」

「独覚って、何のことか分かる? 独りで目覚めた者。仏語で、仏陀の教えに頼らずに自力で悟りを開いた聖者のことだよ」

 さちこの口調が変わった。俺が目を細めると、さちこが、ぞっとするような顔で俺を見上げてくる。

「仏陀と無関係に悟りを開き、輪廻のつながりから逃れた者。仏陀の教えを知らないから、人々を導いたり救ったりすることはない。自分のために悟って自分のために生きる、孤独な聖人」

「何が聖人なのか分からねえ。自分のことしか考えてないやつは、この世に腐るほどいるぜ」

 さちこが俺の胸を両手でつかむ。皮膚に食い込む指は、子供の力じゃない。

「この村を買った坊主たちは、独覚になりたかったの。世の無情や悪徳、獣が持つ純粋な欲を体現して聖人になる。そういう教義を持ってた。だから村人を金で釣って、協力させたの」

 さちこの黒い目が、穴のようにすべての光を吸い込む。



 ――生まれた赤子はすべて名付けず、その日のうちに宗家に差し出すこと。よき血、よき活力が確認された赤子は、宗家がふさわしい名を授け、還す。そうでない赤子のみ自由に名付け、跡取りとして育てること。赤子を隠匿した家には、罰を与える。独覚仏は常にお前たちを見ている。背信は許されない。

 ――ちえこ。知恵を蓄えよ。よしこ。義を蓄えよ。みこと。溢れん命を蓄えよ。独覚仏のために。

 ――きよこ。清らかさを。まなみ。愛しさと美しさを。果実のように実らせよ。さちこ。常に太陽のように笑って、幸福の化身のように振る舞え。

 ――どんなに辛くとも。来るべき日のために徳を磨け。それが使命である。


 ……宗家さん。旦那が工場をクビになったです。酒ばかり飲んで働かんです。二人目の子も差し上げますから、一〇〇〇万ほどくださらんでしょうか。

 ……宗家さん。また県が無茶な条例出しおった。あいつら、弱い者ばかりいじめくさって。また嫁、貸しますから、信者のほれ、何とか先生にシメさせて下せえや。

 ……この村の土地も、水も、宗家さんの持ち物だ。俺らは慈悲で宗家さんの村に置いてもらってるんだ。逆らっちゃならねえ。

 ……独覚はまだなのか。宗家さんが一人残らず悟ってくれれば、もうこんな辛い生活をせんで済むのに。

 ……バケモノ坊主ども。地獄に堕ちろ。


 ちえちゃん。チョコレートって知ってる? あまくて、おいしいんだよ。

 あまいって、なに? しらない。

 知恵ちゃんなのに、知らなかったら、ダメだよ。いっしょに食べに行こうよ。森で鳥の写真を撮ってるおばさんが、くれたんだ。頼めば、またくれるよ。行こうよ。行こう。


 ……さちこ。ちえこに悪いもの食べさせたの、お前じゃないね? ちえこは、もう、使い物にならないって。汚れてしまったって。ダメだよ。母ちゃんが出したものしか、食べちゃ、ダメだよ。お前たちは、特別な子だから、白菜とか、にんじんとか、おいもとか、魚とかしか、食べられないんだ。

 ……刺激物を食べたら、味が悪くなる。

 せっかくの綺麗な名前の力が、無くなるんだ。宗家さんがお前たちを食べて、徳を手に入れて、独覚になるのが、村のためなんだよ。ちえこはもう、畑の肥やしにもなりゃしない。別のちえこが必要だ。

 さちこ、お前は、汚れてないだろうね。

 清浄な肉のままだろうね。

 ……母ちゃんの姉ちゃんも、さちこだったんだよ。あの時は血抜きがうまくいかなくて、怒られちゃったけど。お前は、うまく抜いてあげるからね。あと三年だね。楽しみだね、さちこ。お前は幸せな子だね。本当に幸せな子だね……。



 俺たちは仏壇のそばに背中合わせに座っていた。独覚堂の天井の向こうにある赤い照明が、鈍い音を立てて、夕陽のように傾く。リュックを下ろした背中に伝わってくるさちこの鼓動が、俺の心臓を締めつけた。

 さちこが、ゆっくりと口を開く。

「あたしたちは来るべき日に、家の仏壇の穴に入れられて、ここまで落ちてくるの。その前に家族みんなに、刃物で"おとなしく"させられるけどね」

「なぜ」

「穴をよじ登ってこないように、ってことだけど、本当は、一族全員を共犯にして、村の外に訴え出られなくするためじゃないかな」

 違法な宗教団体の常套手段だ。信者を犯罪者や社会不適合者にして、自分たちに依存させる。さちこがふっと息の音を立てた。

「穴を落ち切ったら、ここで待ってる村のおばさんたちに料理されて、皿に並ぶんだ。異端坊主もヤクザも、基本的には同じだよね。禁忌に手を染めて、偉くなった気になるんだから」

「そうだな」

「なんか、すんなり信じるね。人食い宗教なんて嘘くさいとか思わないわけ?」

「人食いも魔女狩りも生贄の儀式も、地球規模なら割としょっちゅう起こってるからな。そこまで行かなくても、狂った宗教犯罪者なら、この国にもたくさんい

る」

 さちこが振り返る気配がした。彼女の声が眺ねる。

「なんで今頃現れたのさ! 頭がよくて強そうで、勇気があって、こどもの話も真剣に聞いてくれる大人のおじさん! 全部終わってから出てきたって、意味ないじゃん! 生きてる内に出会って助けてよ!」

「ごめん」

 俺が目を向けると、さちこが立ち上がって穴のほうに行った。俺は後を追い、さちこの横に立つ。底の見えない、地獄みたいな大穴だ。

「坊主どもや村人は、村が廃村になった後、どこに行ったんだ?」

「全然、逆。廃村になったから人がいなくなったんじゃなくて、人がいなくなったから廃村になったんだよ」

 大穴から、こおおお、と、風の音が上がってくる。俺はあごに生えかけたひげをなでながら、目を細めた。

「独覚ってやつが、現れたわけか。坊主どもが悟りを開いた。村人は用無しか」

「おじさんが捜してる写真の子たち、ここに来たんだよ。しかも自力で」

 俺はさちこを見下ろす。さちこも俺を見上げていた。

「仏壇から風の音がするのに気づいて、中の穴を見つけたの。探検だって言って、そのまま潜って行っちゃった」

「靴も履かずに?」

「上履き履いてたよ。二足ずつ持ってきたんじゃない?」

「……探検サークルなら、替えの靴は用意してくる、か……」

 俺がこめかみをかくと、さちこが唇を噛んだ。

「でもね、ダメなんだよ。仏壇の穴は料理されるこどもが通る穴だから......穴を通って来た人は、贅にされちゃうんだ」

「……何?」

「この穴もそう」

 さちこがいきなり、穴に身を投げた。俺は反射的にさちこの腕を捕まえる。引き戻そうとした体は、まるで岩のように、重すぎた。

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