『第一話-女神との出会い-』-2
□□□ 0日目(昼)エーテル王国 王都プレセウス周辺
少し湿った土と草の香りが鼻をくすぐる中、まったりと優しい声が聞こえた。
「あのー大丈夫ですか?」
呼びかけに答え、目を開けるとそこには女神様がいた。木漏れ日が逆光になって顔はよく見えないけど、なんとなく女神様がいると思ったんだ。
小さく柔らかい手が、俺の額を撫でる。
何があったかはわからない。なぜか地面に倒れている俺に、女神様が膝枕をして話しかけてくれていた。
「え?」
ぼんやりとした頭で辺りを見渡す。どうやら森の中で俺は倒れていたようだ。背の高い木が緑色の傘を作って、隙間からかすかに光に目がくらむ。
「大丈夫だけど……えっと」
俺はようやく体を起こして、女神様を見て絶句してしまう。
幼い子供が高すぎる宝石の価値に実感が持てない感覚とでも言えばいいのか。
艶のある腰まで伸ばした栗色のロングヘアがふんわりと風になびいていた。白い肌に透き通った鮮やかな青色の瞳が、聖堂のステンドグラスのようにぱちりとはまっている。
新緑を背にし、木漏れ日の中に優しく膝をたたむ姿はまさに創世の女神様そのものだった。
「あの、あなたは女神様ですか?」
「……私におっしゃっていますか?」
あたりをキョロキョロと見回した後、おずおずと自分を指差す女神様はとても可愛かった。
俺は食い気味に、こくこくと頷いて女神様の返答を待っていた。
「私は、女神様ではございませんよ。私の名前は、えっと……ローラと申します。うーんと、魔法使いです」
柔らかな微笑みと共に、ローラさんは自己紹介をしてくれる。その声を聞いた時、全身の緊張が少し解けていった。神聖な雰囲気は変わらず、それでいて親しみを含んだ声、きっと誰もが求めてしまう声だ。
目の前の神秘的な存在は、ふわふわとした神聖な雰囲気をまとうだけの綺麗な人だった。
けど、俺はこんなに美しい人を見たことがなくて、不必要に心臓の鼓動が早くなりつつも安心していた。
「そっか……ローラさん?」
「はい。ローラと呼んでくださいな」
ローラは首から下げた小瓶のような宝石を揺らして、微笑んでくる。
フリルのついた青いワンピースが土に汚れることも気にせず座る姿は、女神様が施しを恵んでくれるように見えた。
よく見ると、大きな旅行カバンが置いてある。旅行中なのだろうか。
「うん。え? ローラって呼んでもいいの?」
ローラが人間であるということは、俺には恋人になれる可能性があるということだ。
人というのはいとも簡単に恋に落ちるものだと実感した。一目惚れの事実と運命の出会いと錯覚したい自分の願望にも驚いている。
「もちろんですよ。私、同い年くらいの方とお話するのは初めてです」
「そうなんだ……。どうして俺を……ってあれ? 俺どうしてたんだっけ?」
そんな人生最高の出会いに喜んでいるのも束の間、俺はある異変に気づいた。
なぜこんな場所で寝ていたのかわからない。頭の中で眠る前の記憶を思い返そうとするけど、なかなか浮かんでこない。
「私が歩いていたら、ちょうどあなたが倒れているのを見つけたんです。怪我もしていたので、寝ている間に治療をさせていただきました。それで、目を覚まされないので心配してたのですが、お元気そうで何よりです」
見た目が美しいだけではない、見ず知らずの俺を何の事情も聞かずに助けてくれたという。心まで美しい。
「そっか。ありがとう!」
笑顔を向けられるたびに、ドキドキしていては仕方がない。しかし、この笑顔を見るたびに俺も自然と笑顔になってしまう。
ローラは小首を傾げて俺に再び微笑みかける。
「いいえ、困っている時に支え合うのは当たり前です。そういえば、あなたのお名前は?」
「あ、ごめんごめん。俺は……」
思わず自分の名前を探して、空を見上げる。そこで言葉がとまる。やはりそうだ。目を覚ましてからずっと感じていた違和感の正体がわかった。
「誰だろう? 俺のこと知ってる……わけないから、聞いたんだよね」
ふるふると首を振るローラを見ながら、俺は思わず苦笑いを浮かべる。
記憶がない。
自分の名前も、出身も、年齢も、なんなら自分の顔さえ思い浮かばない。
ふと、ローラの大きな瞳に映る顔を見てみる。違和感はないが、自分の顔だと言う確信は持てない。
気づいたら森の中で寝ていた。いや、気を失っていたのかもしれない。けど、目を覚ます以前の記憶はない。
ローラとしばらく世間話をしてみたけど、特に思い出すことは何もなかった。
「思い出せませんか?」
「うん……」
「あら、まあ。大変ですね……」
「そうだね……」
困ったことに俺は荷物もほとんど持っていなかった。
持ち物といえば、どこにでもありそうな剣を一本持っているだけだ。
とはいえ、こんな時代遅れの装備で俺はどうやってここまで来たんだろう。そもそもどこから来たのか。
「ちなみに、ここってどこ?」
あたりを見渡しても、特徴のない森では何もわからない。
けど本当に一番困っているのは、正体不明のままではローラに告白することもできないということだ。
他愛も無い会話で引き伸ばしつつ、必死に記憶を探る。
「ここは王都プレセウスから少し離れた街道の近くです。えっと、エーテル王国はわかりますか?」
大陸北西部の王国、エーテルにいることがわかった。では、俺はエーテル王国民なのだろうか。
とはいえ、もっと重要なこともわかった。それは、ここが街中の自然公園などではないということだ。
俺は慌てて立ち上がって、ローラの手を引こうとする。
「げっ……すごい危ないじゃん。魔獣に食べられちゃうよ。早く逃げないと」
街の外をこんな剣一つで歩くなんて正気の沙汰ではない。それくらいの常識は記憶の有無にかかわらず持っている。
結界に守られている街の外を剣一本で歩くなんて、魔獣の餌になりにいくようなものだ。
「このあたりの霊脈はかなり太いので大丈夫ですよ。それに、エーテルは魔獣も少ないですし」
「あれ、そうなの? たくさんいるイメージだったけど」
「うーん。最近少し増えてますけど、それでも他国に比べればエーテルはとても安全な方ですよ」
「そうなんだ。って、こういうことは覚えてるのか。なんでだろう……」
ローラは記憶喪失になる時は、忘れてしまう記憶と、覚えている記憶があると教えてくれた。そして、俺が一般常識以外に覚えていることは、ただ一つだけだった。
二人で色々と話してみるものの何も答えは出ず、とりあえず俺はローラと一緒に歩くことにした。
ローラのことも少し教えてくれた。今は一人で旅をしているらしく、見た目通りのしっかり者だ。
それに頭も良くて、見た目だけでなく話す言葉も所作もとても綺麗で品がある。自分の身なりは汚くはないが、どこが無骨で隣を歩いていると少し萎縮してしまう。
「しかし、私はあなたのことをなんとお呼びになればいいのでしょうか?」
歩きながら、ローラは当然のことを俺に問いかけた。
「たしかに……うーん。名前は、ほしいよね。ローラは何がいいと思う?」
「……え? 私ですか?」
「そう。助けてくれたついでにつけてよ。ローラなら、いい名前をくれそうだし。ほら、頭良さそうだから」
自分でもずいぶんと無理やりな言い分である。本音は共通の話題がなく、話を長引かせたいだけだ。少しでもローラとの繋がりを作りたいという姑息な手段だった。
「……わ、私、人の名付け親になってしまうなんて……」
びっくりした顔で口元を抑えるローラを見ていると、なんとなく小動物を見ているようで心が落ち着く。
「深い意味はないけど、こう……いい感じの名前にして」
「そんな……うーん。難しいですね……。待っていてくださいね。しっかり考えます。えーと……」
それから十分ほど沈黙しながら、二人で街道を歩いた。あれこれ考えるローラの横顔を眺めて俺はのんびりとした気持ちで待つ。
たまに俺の顔や髪を見たり、どんな食べ物が好きかとか聞いてくれる。軽い気持ちで言ったのに、ずいぶんと真剣に悩んでくれた。
ちょうど、峠道の分かれ道にさしかかった時、ローラはぱっときらめいた笑顔を俺に向けてきた。
「そうです。ラナというのはどうでしょう」
ラナ。頭の中で反芻する。本当の名前を思い出すまでの仮の名前ではあるが、驚くほどすとんと胸落ちした。
言葉の響きが綺麗で、自分に似合うかはわからないが、なんとなく名前に似合った自分になりたいと思えた。
「いいね。じゃあ、俺は今からラナだ」
「うふふ。よろしくお願いします。ラナ」
「よーし。じゃあ……って、ローラはどこにいくの? 俺、とりあえずはどこかの街に行こうと思ってるんだけど……」
俺は街の方向を指差しながら、その発言を後悔した。
「ああー、えーっと、ちょっと目的地は言えないんです。ごめんなさい」
戸惑いながら頭を下げるローラ。こちらまで恐縮してしまう。
「ぜんぜん。じゃあ、俺、街の方に行くけど……もしかして、反対側に行くの?」
「……はい。こちらでお別れですね。またどこかで会えたらお話しましょうね。とても楽しかったです」
肩をすくめて満面の笑みをローラはくれた。俺はついていく口実が思いつかずにとにかく手を振って全力の笑顔を返した。
「うん。助けてくれてありがとう、またね!」
ローラが再び森の中へと歩いていくのを最後まで見送る。
姿が見えなくなったところで、俺は反対方向へ歩いていく。
歩きながらずっと頭の中で考えるのはローラの笑顔、だけでなかった。自分のことは何一つ思い出せない中、たった一つだけ覚えていることがある。
「ソフィア……」
俺の幼馴染みの水色の髪の少女。いつも、きっとした鋭い目つきで真面目な顔をしている。少し低めの声も覚えている。
どうして彼女のことを覚えているんだろう。そして彼女はどこにいるんだろう。
彼女のこともよくわからない。ただ、どうしてもソフィアに会わなければいけない気がする。
「まあ、そのうち会えるかな……」
なんて考えていた時、どこからか小さな悲鳴が聞こえた。
周りを見渡しても誰もいない。ただ、後ろに見える森が不気味に静かなだけだった。心の中が妙に騒つく。
そして、大きく息を吸って吐く。それを二回繰り返したところで、足に力をこめて森へ向かって全力で走った。
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