28. 20X5/11/26 #いい風呂の日 と、オフィスの黄色い蒸気
総務部のミサト(25歳)は、11月26日の水曜日、デスクでぐったりしていた。
週の折り返し地点。疲労はピークだ。
「はぁ…温泉行きたい…」
そんな彼女のデスクに、営業部のゴウダ部長(50歳)がニコニコしながら現れた。
彼は「自称・社内のムードメーカー」であり、少し(かなり)おっちょこちょいな愛すべき上司だ。
「ミサトちゃん!
お疲れ様!今日は何の日か知ってるかい?」
「えっと…#いい風呂の日、ですよね?」
「正解!そこでだ。
いつも頑張ってくれている君に、僕からの差し入れだ!」
ゴウダ部長は、ポケットから「カラフルな球体」を取り出し、ミサトの手のひらに乗せた。
パッケージには、『極上の癒やし』『スパイシーな刺激』という文字と、湯気が立つイラストが描かれている。
「これ、最近流行りの『アロマボール』だよ!
デスクの加湿器に入れると、いい香りがしてリラックスできるんだって。使ってみて!」
「えっ、ありがとうございます!部長、オシャレですね!」
ミサトは感激した。
ちょうどデスク用のUSB加湿器の水を変えたところだった。
(スパイシーな刺激…?ジンジャーとか、ハーブ系かな?素敵!)
部長が去った後、ミサトはウキウキしながら、その球体を加湿器の水タンクに投入し、スイッチを入れた。
シュゥゥゥ……。
加湿器から、勢いよく蒸気が噴き出す。
最初は、何も感じなかった。
しかし、数秒後。ミサトの鼻腔をくすぐったのは、ハーブの爽やかな香り……ではなく。
ガツンッ!!
とくる、クミンとコリアンダーと炒めた玉ねぎの、濃厚な香りだった。
「……ん?」
ミサトが首をかしげている間に、香りは爆発的に拡散した。
それは、間違いなく「一晩寝かせた、コクのある欧風カレー」の匂いだった。
しかも、加湿器から出ている蒸気が、心なしか黄色い。
「えっ?
えっ?
何これ!?」
周囲の社員たちが、ざわめき始めた。
「くんくん…なんか、すごいカレーの匂いしない?」
「誰だ!昼ごはんにはまだ早いぞ!」
「やばい、腹減った…この匂いは反則だ…」
ミサトは顔面蒼白になり、加湿器のパッケージ(ゴミ箱に捨てたやつ)を拾い上げて確認した。
そこには、小さな文字でこう書かれていた。
『#いい風呂の日
限定コラボ!
ビーフカレーの湯(入浴剤)』
『※食べられません。浴槽に入れてお楽しみください』
「部長ーーーッ!!
アロマじゃなくて入浴剤じゃないですかーーッ!!」
ミサトが叫んだ時には、もう遅かった。
加湿器は、高効率で「カレーの湯気」をフロア中に噴射し続けている。
オフィスは一瞬にして、スパイスの香りが充満するインド料理屋と化した。
そこへ、タイミング悪く、午後イチの来客があった。
クライアントの重役たちが、会議室へ通される。
「おや…?御社は、社員食堂を完備しているのですかな?」
「いやぁ、実に食欲をそそる、いい香りだ…」
重役たちの腹の虫が「グゥ〜〜」と鳴り響く。
ミサトは、加湿器を止めようと慌てて手を伸ばしたが、焦ってコップの水をひっくり返し、デスクの上もカレー色(にはならなかったが)の大惨事となった。
「#カレーテロ」の犯人となったミサトは、カレー臭のする服で、絶望の午後を過ごすことになった。
【別視点:ゴウダ部長】
営業部のゴウダ(50歳)は、11月26日の昼下がり、冷や汗をかいていた。
彼は先ほど、部下のミサトちゃんに「アロマボール」をプレゼントしたつもりだった。
しかし、自分のカバンのポケットを探ると、そこには「ローズの香り(アロマボール)」が入ったままだった。
「……あれ?これがここにあるってことは、さっきミサトちゃんにあげたのは……」
ゴウダの脳裏に、昨夜、ドンキ・ホーテイでウケ狙いのために買った「ビーフカレーの入浴剤(#いい風呂の日限定)」の記憶が蘇った。
「しまったァァァ!!間違えたァァァ!!」
入浴剤を加湿器に入れたらどうなる?
ゴウダが想像するより早く、答えはフロアに充満した。
圧倒的、カレー臭。
「うわ、めっちゃいい匂いする」
「今日のランチ、カレーにするわ」
社員たちの集中力は、完全に「食欲」へとシフトしていた。
これは業務妨害だ。
始末書ものだ。
ゴウダが謝罪に行こうと立ち上がったその時、入り口からクライアントの重役一行が入ってきた。
「まずい!
あのクライアントは、気難しいことで有名なんだ!
こんなふざけた匂いのオフィスを見られたら、商談が破談になる!」
ゴウダは焦った。
しかし、重役たちは鼻をひくつかせながら、意外な反応を見せた。
「おや…?実にいい香りだ。
懐かしい、洋食屋のカレーの匂いだねぇ」
「いやぁ、ここに来る前、忙しくて昼食抜きだったんですよ。
この香りは…たまらんですな(グゥ〜)」
重役たちの表情が、かつてないほど緩んでいる。
ゴウダの脳内で、「#チームワーク」というトレンドワードが閃いた。
(これだ!これを逆手に取るしかない!)
ゴウダは、腹をくくって重役たちの前に進み出た。
「いらっしゃいませ!
本日はようこそお越しくださいました!」
「ゴウダさん、この香りは…?」
「ハッハッハ!
お気づきですか!
実はこれ、本日の『おもてなし』でございます!」
「おもてなし?」
「はい!今日は#いい風呂の日ならぬ、#いいカレーの日(適当)ということで!
皆様の脳をスパイスの香りで活性化させ、円滑な議論をしていただくための、最新の『香りマーケティング』です!」
「ほほう!香りマーケティング!さすが御社、先進的ですな!」
「いやぁ、おかげで腹が減って、早く契約をまとめてご飯に行きたくなりましたよ!ガハハ!」
ゴウダの苦し紛れの嘘は、空腹の重役たちに奇跡的にヒットした。
商談は、かつてないスピードで進んだ。
全員が「早く終わらせてカレーを食べたい」という一点でチームワークを発揮したからだ。
商談後、ゴウダはミサトのデスクに向かった。
彼女はカレー臭のする加湿器の前で小さくなっていた。
「部長…すみません、私が確認せずに…」
「いや、いいんだミサトちゃん。
実は、あれは僕の間違いだったんだ。本当にすまない!」
ゴウダは正直に謝罪した。
「でも、怪我の功名というか…あのおかげで、契約が取れそうだよ。
君の加湿器は、勝利の狼煙(のろし)を上げてくれたんだ!」
「えっ?本当ですか?」
「ああ。だから、お詫びとお祝いを兼ねて、今日のランチは僕が奢るよ!」
「わぁ!何ごちそうしてくれるんですか?」
ゴウダは、ニカッと笑って言った。
「もちろん、カレーだろ?」
「……部長、デリカシーなさすぎです!」
ミサトは怒ったが、そのお腹は正直に「グゥ〜」と鳴った。
11月26日、その会社の社員食堂では、カレーの売り上げが過去最高を記録したという。
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