27. 20X5/11/25 #給料日と、控除されない推し活

システムエンジニアのヒロシ(32歳)は、11月25日の昼休み、社員食堂で「カツカレー(大盛り)」を前に、王者の風格を漂わせていた。


昨日の「祝日ダイヤ遅刻事件」の汚名を返上すべく、今日は朝からバリバリと働いている。

そして何より、今日は「#給料日」だ。

スマホの銀行アプリを開くと、そこには美しい数字が並んでいる。



「ふっ…。今月の俺は無敵だ」



ヒロシの頭の中には、すでに使い道が決まっていた。


昨日発表された「宇宙刑事ジャバン・紅蓮のコンバットスーツ(1/1スケール・レプリカマスク)」。価格は15万円。


高額だが、独身貴族のヒロシには、この給料があれば余裕で購入できる。



「ポチるなら、今しかない…!」



彼はスマホで予約サイトを開き、「購入確定」ボタンを押そうとした。


その時、食堂のテレビからニュースが流れた。


『今日は11月25日、#いいえがおの日です。笑顔で免疫力をアップさせましょう』



「はん、俺は今、人生で一番いい笑顔をしてるぜ…」



ヒロシがニヤニヤしながら購入ボタンを押そうとした瞬間、背後から氷のような冷気が漂ってきた。


そして、その冷気と共に、聞き覚えのある声が鼓膜を震わせた。




「……ヒロシさん。いい笑顔ですね」




ヒロシが振り返ると、そこには経理部のサエさん(26歳)が立っていた。


彼女は確かに口角を上げているが、目は全く笑っていない。


能面のような、美しくも恐ろしい「#いいえがお」だ。




「サ、サエさん?ど、どうしました?経理の女神がこんなむさ苦しい場所に…」




「女神?ふふ、面白い冗談ですね。……ヒロシさん。貴方、今日が何の日かご存知ですか?」



「えっ?給料日…ですよね?」



「ええ。そして、#年末調整の書類提出期限の最終日でもあります」



ヒロシは、スプーンを持ったまま硬直した。


(ね、ねんまつちょーせー……?)



完全に忘れていた。


あの、やたらと細かい字を書かされ、生命保険のハガキを探し出し、マイナンバーを書き写す、現代の拷問のことだ。




「あー!す、すみません!午後イチで出します!ハガキも家にあるんで!」


「いえ、結構です。貴方、昨日こっそりポストに入れて帰りましたよね?その書類について、確認したいことがあるんです」




サエさんは、クリアファイルから一枚の書類を取り出した。


ヒロシが昨日、適当に書いて提出した「給与所得者の保険料控除申告書」だ。



「ここです。『地震保険料控除』の欄」



サエさんの細い指が、ある一行を指し示した。



『宇宙刑事ジャバンファンクラブ年会費:5,000円』



ヒロシは、カツカレーを吹き出しそうになった。


「ぶっ!?」





「さらにこっち。『社会保険料控除』の欄」


『プレミアムバントウおまとめ配送送料:660円』


サエさんは、笑顔のまま言った。




「ヒロシさん。いつから日本政府は、宇宙刑事への支援を『地震保険』として認めるようになったんですか?


バントウの送料は、いつから『社会保険』になったんですか?」


「い、いや!違うんです!それは昨日の夜、ジャバンのニュースを見ながら書いてたから、無意識に脳内の『固定費』が混ざって…!」




「書き直しです。今すぐ。ここで。……印鑑、持ってますよね?」



サエさんは、懐から朱肉と訂正印を取り出し、ドン!とテーブルに置いた。


「13時までに完璧な書類が出なければ、来月の貴方の住民税、私が手計算で最大限まで引き上げておきますからね」



ヒロシは泣きながら、カツカレーが冷めていくのを横目に、震える手で書類の訂正を始めた。


15万円のマスクを買う指先が、今は訂正印で赤く染まっていく。


給料日の全能感は、経理の女神(鬼)によって、粉々に粉砕されたのだった。





【別視点:経理・サエ】


経理部のサエ(26歳)にとって、11月25日は一年で最も憂鬱で、最も殺気立つ日だった。


「#給料日」の振込処理をミスなく完了させ、息つく暇もなく「#年末調整」の書類不備と格闘する。


3(THritter)では「#いいえがおの日」などと浮かれたタグが流行っているが、今のサエの顔は、笑顔というより「般若」に近い自覚があった。




「……はぁ。また不備。どうして営業部の人間は、住所すらまともに書けないのかしら」




サエのデスクには、訂正が必要な書類の山が築かれている。


その中でも、群を抜いて酷いのが、システム部のヒロシさんの書類だった。




「何これ……喧嘩売ってるの?」




『地震保険料控除:宇宙刑事ジャバンファンクラブ年会費』

『社会保険料控除:プレミアムバントウおまとめ配送送料』



サエは、怒りを通り越して乾いた笑いが出た。


昨日、彼が「祝日ダイヤで遅刻した」という言い訳を3(THritter)で垂れ流していたのは知っている(社内監視用アカウントで把握済みだ)。


どうやら、その特撮ボケが、公的な書類にまで侵食しているらしい。


「許さない。私の残業時間を、宇宙刑事ごときのために増やすわけにはいかない」



サエは立ち上がった。時刻は12時15分。


社員食堂に行けば、彼がいるはずだ。


サエは、鏡の前で広角をクイッと上げ、完璧な「ビジネスマイル」を作った。


今日は「#いいえがおの日」だ。笑顔で、確実に、息の根を止める(訂正させる)。


食堂に着くと、ヒロシさんはカツカレーを前に、スマホを見てニヤニヤしていた。


その油断しきった顔を見ていると、サエの笑顔の奥にある般若がアップを始めた。





「……ヒロシさん。いい笑顔ですね」



声をかけると、彼は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。


そこからのサエの詰めは完璧だった。


逃げ場を塞ぎ、証拠(ふざけた書類)を突きつけ、公衆の面前で「推し活費を控除申請した」という恥ずかしい事実を晒し上げる。




「書き直しです。今すぐ。ここで」




ヒロシさんが涙目で訂正印を押している間、サエは彼の冷めたカツカレーを見つめながら、ふと思った。


(……私も、控除したいな)




サエもまた、隠れオタクだった。


彼女の「推し」は、某男性アイドルグループ。


昨夜、彼女も年末調整の書類を書きながら、コンサートのチケット代やグッズ代を計算し、


「これが経費になれば、どれだけ税金が戻ってくるか」と妄想していたのだ。


だからこそ、ヒロシさんが無意識に「ファンクラブ会費」を書いてしまった気持ちが、痛いほど分かってしまった。




(バカな人。頭の中で思うだけなら自由なのに、書いちゃったら終わりよ)




サエは、少しだけ声のトーンを緩めた。



「ヒロシさん。訂正が終わったら、そのカツカレー、食べていいですよ。冷めてますけど」


「うっ…ありがとうございます…サエさん…」


「その代わり、来年は絶対に一発で通してくださいね。宇宙刑事の力で」


「は、はい!蒸着する速さで出します!」


書類を回収したサエは、オフィスに戻るエレベーターの中で、自分の書類を確認した。


そこには、正しく生命保険料が記載されている。


しかし、彼女は心の中で、その横に透明なペンでこう書き足した。


『心の控除:アイドル笑顔代プライスレス』



サエは、誰もいないエレベーターの中で、今日一番の「#いいえがお」を作った。


午後も、不備書類との戦いは続く。


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