最終話 ハロー・ザ・グッバイ

10-1

 割とこの生活は気に入っていた。

 平凡な毎日。普通の生活。特に大した事件の起こらない毎日で、それでも時々はちょっとしたドラマがあったりする。そんな普通の女の子としてたまきはこれまでの日々を謳歌していた。

 中学校に入ってもそれは特に変わらず、親友の千尋ちひろといつも一緒の毎日を送っている。辛いこともあるけれど、いつも穏やかに過ごせている。

 不満もあるけれど、大した不満ではない。今の人生に満足しているかどうかと言えば、満足している。怒りとか哀しみとかを感じることも多々あるけれど、それでも喜びや楽しみを感じることの方が多いと思う。足りない部分もあるけれど満たされた部分もある。むしろそっちの方が多いと思う。たぶん、生来楽天的な性格なのだろう、と環は思う。だからこそ自分は実に普通で、平凡な、ただの女の子。環は自分のことをいつもそう思っていた。

 きっとこれからもこれまでと同じように、特別驚異的な出来事が起こったりもせず、ささやかな幸せや希望と大したことのない絶望が繰り返される日々の中で、ずっと自分はのんびりと過ごしていくのだろう……と、環はいつもそう思っていた。

 ——“彼”と会うまでは。


「おはよー環」

 いつも登校の際に待ち合わせしている公園に千尋が早足でやってくる。

「おはよう千尋」

「毎日暑いね!」

 環はクスッと笑う。

「それいつも言ってるね」

「夏だもん〜」

「でも今日は過ごしやすい方じゃない?」

「そう? 風が爽やかだからかしら」

 確かに今日は朝からそよ風が吹いている。七月の照りつける太陽はとても眩しく、二人は手をかざして空を仰ぐ。

「お日様もいつも通りだね」

 という環に千尋は首を傾げる。

「お日様がいつも通りじゃないことなんてある?」

「そりゃあもう日食とか」

「マジな話が来ちゃった」

「でも、さ」と、環はちょっとほっぺたを掻いて微笑む。「いつも通りって幸せなことだと思う。行こ」

 と、二人は公園内に入っていく。この公園の中を突っ切った方が学校へは近い。

 歩きながら千尋は両手を頭の上で組んだ。

「たまにはエキサイティングなことが起こってほしいけどね〜」

「例えば?」

「宝くじが当たるとか?」

「千尋、宝くじなんか買ったことないじゃない」

「買ってみようかな」

「運を使っちゃうのはもったいないよ」

「そうねぇ。それもそうねぇ」

 いつもの朝だった。

 ——ここまでは。


「……あれ?」

 と、環は公園の中心の木を見て怪訝な顔をした。

「どしたの」

「桜が咲いてる」

「桜?」

 今は七月。夏。にもかかわらず、その桜の木は満開だった。

「異常気象のニュースなんか聞いてないけどなぁ」

「異常気象がどうしたって?」

 ここで環は首を傾げる。

「桜が咲いてるっていうのに随分ノーコメントだね」

 すると今度は千尋が首を傾げた。

「だって、桜なんて年中咲いてるじゃない」

 明らかな異変を覚え、環は、え、と目を剥いた。

「桜は春でしょう?」

「えっ……毎日咲いてるじゃないのよ」

「え?」

 二人は顔を見合わせた。

 桜は春。今は夏。だから夏の今、桜は咲かない。それが子どもの頃からずっと続いてきた自分の常識だった。

 にもかかわらずこの木は桜が満開で、そして親友の千尋はそれを何も疑問に思わない……。

「そうか」

「どしたの」

「どこかにカメラが。ドッキリか」

「環。環」

 と、千尋が自分の肩をポンポンと叩いたので、環はなんだろうと思う。

「落ち着いて聞きなさい」

「……なに?」

「桜は年中咲く花で、別に春に限定して咲くものじゃないのよ」

「だからドッキリでしょう?」

 千尋は、困ったな、という顔をした。

「ちょっと寝ぼけてるのかもしれないよ。昨日の夜、ちゃんと寝た?」

「夜はちゃんと寝たよ。いや、寝ぼけてないって。だって昨日までは桜なんて——」

「おっす女子二人組!」

 と、そこにクラスのムードメーカーの柿本秀哉かきもとひでやがやってきたので二人はそちらの方を見る。

「おはよー柿本」と、千尋は挨拶する。

「おはよ。どしたの二人とも」

「いや、桜が」

 状況を説明しようとした環だったが、そこを秀哉に遮られた。

「早く学校行こうぜ。遅れちゃうだろ」

「あ、そうね」と、千尋も追随する。「とりあえずとにかく学校行こ、環」

「え」

「話なら学校で聞くから」

 と、千尋が心配そうな顔で、それでも微笑みながらウインクをした。

 秀哉が白い歯を見せてニカっと笑う。

「……うん。わかった」

 あとで思ったのが、なぜこの場で二人に桜の追及をもっとしなかったのか、ということと、秀哉はなぜここにやってきたのだろうということだった。秀哉の登校ルートではないはずなのに、それなのになぜ自分はそれをそのときそこまで疑問に思わなかったのか。


 ——昨日までは、何事もなかった。

 それこそ、までは。


 教室に入り、環はまたしても怪訝な顔をした。

 席に着く。環と千尋の席は隣同士。

「ねえねえ千尋」

「なぁに?」

月山つきやまくんが来てるね」

 と、窓際でクラスメイトの男子二人と談笑している月山郷秋つきやまさとあきに目をやった。

「月山くんがどうしたの?」

「え。だってあの子、ずっと不登校だったじゃない」

「……不登校?」

 今度は千尋が首を傾げた。

 そしてゆっくりと言った。

「月山くん、いつも来てるよ……?」

 異変。

「——え?」

「やっぱりちょっと寝た方がいいね。ホームルームまで時間あるからちょっと休んでた方がいいよ」

「で、でも——」

 と、そこでクラスの女子たちが千尋を呼んだので、彼女ははーいと答えてそちらへ行く。

 環は一人になる。

 なんだろう。

 どうしたんだろう。

 真夏に桜が咲いていたと思ったら、去年、一年生の五月からずっと不登校だった月山郷秋が登校している……ことを、千尋は何も疑問に思っていないし、他のクラスメイトたちも何も訝しんでいない。

 ……でも、その割には、自分はさほど衝撃を受けていない。

 桜の木のことも、秀哉の登校ルートのことも、月山郷秋のことも、時計の針が進むごとにだんだん受け入れ始めている。

 そんな自分を客観的に見る自分がいる。


 毎日は穏やかに過ぎていく。

 ただただ穏やかに過ぎていく。

 それが心地よくて——。

 だから……それがずっと続いていくと思っていた。

 それだけだった。

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