6-4

「どういうことなのでしょう。この実験は一体何なのですか」

 部屋に飛び込むと同時に燕は目をギラつかせながら半ば叫ぶようにそう言った。すると十三は、いつものことだ、と言わんばかりに、平然と答えた。

「要はあなたの差別なき世界っていうのがあなたの想像力の限界なんでしょうね」

「想像力の限界ですって。あのねぇ、長年闘ってきたこの私に向かって——」

「あなたの深層心理の真の願いはヴィジョンとして曖昧なのでしょう。その証拠が、さっきからのです」

 燕は十三を睨みつけた。

「でも、私は、私の夢は、色々な人たちが色々な在り方で共存して——」

「我々は、男女が平等な社会を知らないし、同性愛者が異性愛者と同じように生活する社会を知らないし、障害者が楽しく穏やかに生きていける社会を知らない」

「そうです。だから私は」

「あなたも、知らない」

 と言われ、燕は怯んだ。

「それは」

「あなたのヴィジョンが明確ではなかった——ということです」

「……」

「割とさっきから説明してるつもりなんですが」

 ヴィジョン。将来のヴィジョン。真の願いの、ヴィジョン。

 それが明確ではなく、曖昧模糊としていた——だから自分の差別なき世界のシミュレーションがあんなものになってしまった。

「まあお座りを。お茶でもどうぞ」

 と、十三は立ち上がり、ベッドに座るように促してコーヒーを淹れに行く。

「……」

 仮に——このデジタナログの実験が成功だったとして。

 自分には一体何が足りなかったのだろうと燕は逡巡する。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 と、二人でコーヒーを飲む。やや静かな空間が広がる。

 しばらくそうしていて、やがて十三は口を開いた。

「いろんな人がいる、から、差別は起こる。あなたのシミュレーションの通りにね」

「……」

「でも、別に差別レベルじゃなくても、人間の悩みの九割は人間関係の悩みということのようですし、例えば異世界に転生しようがゲームの世界に転移しようが、そこに自分以外の、他人という人間がいる限り、この現実の世界のありようとさほど変わるところではないかと、私は何となく思いましたよ」

 それはそうだと思う。

 でも、だからといって同化政策は違うはずだ。それは歴史が証明している。

 だから燕は言ってみた。

「じゃ、解決の仕様はないとおっしゃるんですか? それでは差別なき世界は訪れない——」

 そんな燕に、十三は、やや真剣な表情で説明を始めた。

「例えば、目の見える私たちは、目の見える人も見えない人も、みんなが何不自由なく楽しく穏やかに生きて暮らしていける世の中がいいよねって、これは誰もが思うと思うんです。まあ中にはそんなこと思わないっていう人もいるんでしょうけどそれはさておき」

「はい」

「でも、だからと言って目が見えなくはなりたくないでしょう、あなたも」

「それは……」

「それは不便だからとか、あるいは、目で見ることのできる美しい世界を手放したくないとか、そういうことよりも、それを遥かに超越する本質的な視覚障害者への、原始的な拒絶、嫌悪感——要するに差別心が理由なんじゃないですかね」

 ふと燕は、この博士なら対話が可能だと思った。

 いつも反差別の話を誰かにしても、誰もろくに相手にしてくれなかったことを思い返す。みんな、差別はあってはならないことだと思っている。でも、だからと言って積極的になくしていこうとはならないし、あるいはまさに自分自身が差別に加担しているという事実を決して見ようともしない。例えば白人によるアジア系への差別は差別だと認識できるのに、それが対女性だといちいちうるさいと言われてしまうのが辛かった。そんな日常があまりにも切なく、苦しかった。その果ての今、つい声を張り上げるような性格になってしまった。穏やかに言っても伝わらないから。

 でもこの多鍵博士は、もしかしたら、普段からそういうことに関心があるのかもしれないし、あるいは本当の意味で頭のいい人なのかもしれないと思い、だから話をしてみたいと思い、燕は言う。

「だから誰もが誰かを差別している。友達同士でも家族間でも差別はある」

「だからいじめとか犯罪とかと同じで、発生する、存在するという前提のもと社会がデザインされる必要がある」

「だからそのためにはその差別心を誰もが、それこそ全人類が自覚する必要があります」

「それが極度に難しい。だって、今まさにこの瞬間、自分が誰かを殺しているだなんて事実を目の当たりにしたら、きっと人って反省と罪悪感と自己嫌悪で押し潰されそうになる……まあ実際は、そこを認めてしまえばあっさり次のステップに進めるんですが」

「その通りです」

「だから……これまで差別はイコール人類の歴史みたいなところがあるので、いくら理不尽な話でも一朝一夕にこうすれば解決、とはならないかと。少なくともあなたや私が生きている限りは差別なき世界は訪れない気がします」

「……」

 ふう、と、燕はため息をついた。

 そうだと思う。

 そうだろうと思う。

 一朝一夕で世界は変わらない——たとえそれがどれだけ理不尽な話であっても。

「多鍵さんは、差別の話にお詳しいようで。そういうお友達たちと、今みたいな話をしょっちゅうなさるのかしら?」

「いえ。私は私が思ったことを言ってみただけです」

「割と的を射ていたかと。賢いのね、さすが博士——」

 この博士の言っていることは非常に現実的で、リアルだと思った。

 しかし。

「でも、諦めませんよ私」と、燕はにっこりと微笑んだ。「そう遠くないうちに差別なき世界を実現してみせますわ」

「いいと思いますよ。結局のところ、差別がデフォルトの世の中、あなたみたいな人がいるから世界はマシなレベルを保っていられるっていうのはあるんでしょうね」

「帰ります」と、燕はコーヒーを少し残して机の上に置いた。「次の講演会の準備をしなきゃ」

「はい。それでは謝礼を」

 と、十三は引き出しからいつもの茶封筒を取り出した。

「本日は実験にご参加いただき、誠にありがとうございます」

「いえ。こちらこそ大変勉強になりましたわ。それでは——失礼致します」

 と、燕は部屋を出ていこうとする。

 その後ろ姿を見て、十三がふと、ああ、と言ったので、燕は振り返った。

「あと最後にもう一つだけ。これは私自身の反省だったりするんですが……」

「何ですか」

 柔和な笑みで、しかし真剣な眼差しで十三は言った。

「純粋さって、結構他人を傷つけるものです」

「……」

「夢は、計算と計画でもって見ていくのがいいかと」

 しばし立ち尽くし、十三の言葉の意味を考える。

 やがて燕は——ふっと笑った。

「肝に銘じます」

「では——またいつかどこかでお会いしましょう」

 そうして燕は研究所を出て自宅へと帰っていく。十三は飲みかけのコーヒーを見て、ホットは苦手だったのかな、と、ちょっと思うのだった。

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