第11話はじめての町へ

街道は東へと続いていた。

乾いた土の道に、馬の蹄が静かに響く。

朝の霧が晴れ、遠くの丘の向こうに城壁の影が見え始めたとき、行商人のひとりが声を上げた。


「見えてきましたよ、キノさん。あれが〈レーヴェン〉の町です!」


キノは馬車の上から遠くを見やった。

灰色の石壁が陽光を反射して輝き、城門の前には長い列ができている。

荷車を引く商人、旅の修道士、鎧姿の兵士――多くの人々が出入りしていた。


「人が……多いですね」

「ええ。東部では一番の交易都市ですからね。初めて見ると圧倒されるでしょう」


行商人の言葉に、キノは小さくうなずいた。

半年の間、森と村の暮らしに慣れた身体には、この人の流れがまるで異世界のように感じられた。

――いや、実際ここも“異世界”なのだ。


城門をくぐると、空気が変わる。

土と煙、鉄の匂いが混ざり合う。

石畳の道には商人たちの呼び声が響き、屋台からは焼きたてのパンや肉の香りが漂っていた。


「ようこそ、レーヴェンへ!」

門の近くで声を張り上げる露店の少年が、焼き果実の串を売っている。

キノは足を止め、一本を買った。

かじると、蜜のような甘さが口に広がる。

「……うまいな」

「それ、南の森の果実ですよ! 旅人さん、初めてでしょ?」

少年は笑いながら言った。


その明るさに、昨夜までの冷たい視線が少し遠く感じられた。

場所が変われば、人も変わる。

世界は、思っていたより複雑で――そして、思っていたより優しいのかもしれない。


***


行商人たちは市場へと荷を運び、キノも同行した。

町の中心には巨大な噴水があり、その周りをぐるりと商店と屋台が囲んでいる。

ガラス細工の店、革細工の店、そして遠国の香料を並べた商人。

人々の声と匂いが渦を巻く。


その中で、キノの足は自然と立ち止まった。

――木工品の店だ。


店先には彫像や椅子、精緻な装飾の施された小箱などが並んでいる。

だが、どれも作りは粗く、仕上げが甘い。

店主と思しき中年の男が、キノの視線に気づいた。


「おや、見る目があるね。旅の人かい?」

「ええ。木を少し扱います」

「ほう、同業か。腕を見せてもらおうか?」


男は冗談めかして笑いながら、小刀と木片を差し出した。

キノは一瞬迷ったが、受け取る。

――刃の重み、木の質。

手が自然に動いた。


ナイフが音もなく走り、あっという間に一羽の小鳥が形をなす。

見物していた子どもが思わず声を上げた。

「すごい……!」


店主の表情が固まる。

「……どこで、その腕を?」

「ただの趣味ですよ」


キノは微笑んで、小鳥を店の棚に置いた。

「売るなら、少し磨けばいい」


そう言って立ち去ろうとしたが、背後から声がかかった。

「おい、名前を教えてくれ!」


「キノ。――ただの旅人です」


その名が、初めてこの町の空気に溶けていった。


***


日が傾くころ、行商人たちは宿を取りに向かった。

大通りの端にある石造りの宿。

宿主は快活な女性で、客を見ると笑顔で迎え入れる。


「まあ、ドワーフさんとは珍しい! どうぞゆっくりしていって」

その言葉に、キノは少しだけ肩の力を抜いた。


「この町は、外からの者にも寛容なんですね」

「ええ。金と腕があれば、誰でも歓迎さ。ここはそういう場所だから」


それは、妙に現実的で――同時に、どこか心地よい言葉でもあった。


二階にある部屋に荷を下ろし、窓を開ける。

遠くの屋根の向こう、夕焼けが町を染めている。

鐘の音が鳴り、人々の笑い声が重なる。


キノは小さく息をついた。

「……本当に、生きている世界なんだな」


戦いではなく、冒険でもない。

ただ、今日を生きる――その実感が、胸の中に静かに広がっていく。


そしてその夜。

宿の下の食堂で、彼女の彫った“小鳥”が話題になった。

「広場の職人たちが見に来たらしいぜ」

「『ドワーフの木彫り師』だってよ」


誰がそう呼び始めたのかはわからない。

けれど、ロイスという“戦神”の名ではなく――

“キノ”という名が、初めてこの世界で形を得た瞬間だった。


***


宿の窓から見下ろすと、石畳の通りに灯りが点り始めていた。

昼間の喧騒が去った後、代わりに現れるのは、柔らかな橙色の光。

それは炎のようであり、命のようでもあった。


「……夜市か」


下の通りでは、屋台が並び、人々の笑い声と楽器の音が混じっていた。

昼間は忙しそうに行き交っていた商人たちも、今は一杯の酒と音楽を楽しんでいる。

キノは作りかけの木製の馬を置き、腰にナイフと小袋を下げて宿を出た。


夜の空気はひんやりとして心地よい。

屋台の間を抜けると、香辛料の匂い、甘い果実酒の香り、焼いた肉の煙が鼻をくすぐる。

見たこともない品々が並び、耳慣れぬ言葉が飛び交っている。


この町は、本当に多様だった。

人間、獣人、エルフ、果ては小柄なドワーフまで。

それぞれが何かを売り、何かを買い、互いに笑っている。


「まるで、世界そのものがここに集まっているよう……」


そんな感慨を覚えながら、キノは立ち止まる。

屋台のひとつで、見事な細工を施した木製の笛が目に留まった。

思わず手を伸ばすと、店主の女性が声をかけてきた。


「そこの旅人さん、見る目がいいわね。これは南森のエルフたちが作った笛よ。一本どう?」

「……いや、買うよりも興味があります。どうやって作ったんですか?」


キノの言葉に、女性は少し目を細めた。

「職人さんかい?」

「まあ、そんなところです」


「へぇ、珍しいね。ドワーフで木工をやるなんて」

彼女はそう言って笑い、笛の構造を軽く説明してくれた。

キノは黙って聞き入り、ときおり質問を挟む。


――やがて、彼女の真剣な様子に気づいたのだろう。

隣の屋台から、別の男が声をかけてきた。


「おい、あんた。木工職人か?」


見ると、腕っぷしの太い中年男。腰には工具袋。

明らかに同業者のそれだった。


「多少は」

「なるほどな……。さっき市場で“ドワーフの木彫り師”の噂を聞いた。まさかお前のことじゃないだろうな?」


キノは少し困ったように笑った。

「その呼び名は、勝手につけられたものですよ」


男はふっと笑い、手を差し出した。

「俺はバルド。〈工匠ギルド〉の職員だ。腕を持つ奴は、皆うちを通る。興味があるなら一度顔を出してみろ」


ギルド――職人たちの組織。

その言葉に、キノはわずかに眉を上げた。


「わたしは旅人です。定住の予定はないですよ」

「旅の間だけでも構わん。登録だけしておけば、道具や材料が安く手に入る。仕事を受けるも断るも自由さ」


現実的な提案だった。

そして、半年の暮らしの中で、こうした“現実的な関係”が最も安全であることもキノは学んでいた。


「考えておきます」

「そうしな。お前の彫りは本物だ――木が喜んでた」


そう言い残して、バルドは人混みに消えた。


***


夜市の終わりに近づくころ、キノは川沿いの灯りの下に腰を下ろした。

買ったばかりの温かいスープをすすりながら、流れる水面を眺める。

街の光が波に揺れ、星のように瞬いていた。


「……不思議なもんだ」

独り言のように呟く。

「ただ、生きて、食べて、眠る。それだけなのに、こんなにも満たされるなんて」


ロイスとしての力は、ここでは意味を持たない。

戦いの技も、恐るべき能力も、この世界では誰も知らない。

だが――それがいい、とキノは思った。


風が吹き抜け、笛の音が遠くで響く。

それは、夜市の終わりを告げる音だった。


キノはゆっくり立ち上がり、宿へと歩き出す。

背後には、まだ賑わいを残す灯の群れ。

その中に、新しい生活の輪郭が確かに見えていた。




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