第6話灰の朝、木屑の匂い

朝。

鳥の声が戻っていた。

まるで昨日の出来事が夢だったかのように、陽光はやわらかく、村の空気は穏やかだった。


キノは宿の窓辺で小さく伸びをした。

外の光が、木の床を金色に染める。

灰の欠片は机の上にあり、夜の間、淡く光を放っては消えていたが、今はただの石のように静かだった。


「……おはよう、アルガン」


異空間から姿を現した黒熊が、あくび混じりに鼻を鳴らす。

その仕草に、キノは小さく笑った。


「うん。今日は、普通に過ごそう。森はもう近づかない」


キノにとって、戦いは“確認”に過ぎなかった。

この世界が危険であると理解した。

でも、それは理由にならない。

キノの中の彼はただ――穏やかに、生きたいだけだ。


***


朝食の席で、マルナが声をかけてきた。


「キノ、昨日は外に出てたって聞いたけど、大丈夫だったの?」


「はい。少し煙が見えたので、確認に行っただけです。森の方で、焚き火の跡がありました」


「そう。……なら、いいんだけど。北の風は気味が悪かったからね。灰風が吹くと、昔話では“塔の人”が近くを通るって言われてるの」


「塔の人?」


マルナは肩をすくめて笑う。


「ほら、昔の伝承さ。空を渡って、世界を見回る灰の番人。もう誰も本気にしてないけどね」


(灰の番人……)


キノはその言葉を胸の奥にしまい込んだ。

何かに繋がる気がしたが、考えすぎても仕方がない。

朝のパンが焼き上がり、いい香りが立ち上る。


それを噛み締めながら、キノはふと、つぶやいた。


「こうして、焼きたてを食べられるって、贅沢ですね」


「旅人にしては落ち着いてるね。大抵の人は“もっと強い町”を目指すものだけど」


「……強い町、ですか」


「そう。魔導塔や騎士団がある大都市。ああいう所は便利で安全だよ。でも、心が疲れる」


マルナの言葉に、キノは少しだけ笑みを浮かべた。


「そうですね。わたしは、静かな場所が好きです」


その表情を見て、マルナは何も言わず、紅茶を注いだ。

香りが、ほんの少し懐かしい。


***


昼、木工場。


昨日の灰風の影響で、森の一部が焦げていたらしい。

木材の搬入が遅れ、工房では修繕作業が続いていた。


「キノ、その板押さえててくれ」


「はい」


鉋をかけ、木の香りが立つ。

木屑が光の中で舞うのを眺めながら、キノは静かな満足感を覚えていた。

金属の響きではなく、柔らかい手触り。

この世界に来てから初めて、“作る”という行為に温もりを感じていた。


「お前、変わってるな」


グレンが呟いた。


「普通の旅人は、こんな地味な仕事すぐに飽きる。お前、職人になりたいのか?」


「いえ。ただ、作るのが好きなだけです。……鍛冶は火の匂いが強すぎて。木の方が落ち着きます」


「ほう、ドワーフにしては珍しいな。まぁ、悪くねぇ」


キノは微笑んだ。

それ以上の会話はなく、ただ、木を削る音だけが続いた。


***


夕方。

森の方角の空が赤く染まり、灰の気配はもうなかった。

村の子どもたちが追いかけっこをしている。

平和な一日が終わる。


宿へ戻る途中、キノはふと立ち止まった。

風が頬を撫で、ほんの一瞬、耳の奥で声のようなものが響いた気がした。


――「見ている」


振り返っても誰もいない。

ただ、遠くの丘の上で、灰色の鳥が一羽、こちらを見ていた。

不気味ではなく、どこか穏やかな気配をまとって。


(……気のせい、かな)


宿の扉をくぐり、木の香りに包まれる。

アルガンは既に異空間に戻してある。

今夜は静かに過ごせそうだ。


食卓には、スープとパン、ハーブの煮込み。

香りを楽しみながら、キノは思う。


(この世界は、まだわからないことだらけだ。でも――)


外の風が、灰ではなく、柔らかく吹いている。

それで十分だ、とキノは微笑んだ。


「……今日も、生きてるな」


小さな独り言が、静かな夜に溶けた。




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