第3話木の香りの朝

朝の光が差し込む。


鶏の鳴き声でキノは目を覚ました。

昨夜の疲れがすっかり抜け、身体は軽い。


「……朝、か」


ベッドの脇に置いた弓と装備袋を確かめ、髪を軽く結い直す。

外からはパンを焼く香ばしい匂いと、人々の話し声が聞こえてきた。


扉を開けると、陽光が木の床を照らし、埃が金色に舞っていた。

〈白風亭〉の階下では、女将が朝食を並べている。


「おはよう、キノちゃん。よく眠れたかい?」


「はい、ぐっすりです。……朝ごはん、いい匂いですね」


「焼き麦とスープだよ。しっかり食べて、今日は何をするんだい?」


「少し村を見て回ろうかと。手伝えることがあれば、何かやってみたいです」


「えらいねぇ。あんた器用そうだし、木工職人のグレンに顔を出してみるといい。あの人、人手が足りないってぼやいてたよ」


「木工……なるほど」


キノは思わず微笑む。

自分が鍛冶スキルを極めていることを思い出した。

だが、それを使うわけにはいかない。渡りに船だ。


“能ある鷹は爪を隠す”――この世界では、あくまで一人の旅人として生きるのだ。


「……お手伝いできる程度なら、ちょうどいいかも」


***


村の南端。

普通の家の隣に、木屑の香りが漂う作業小屋があった。

屋根からは陽の光が差し込み、木槌の音がリズムを刻んでいる。


「こんにちはー。女将に紹介されて来ました」


振り向いたのは、褐色の肌をした筋骨たくましい男――グレンだった。


「ああ、マルナから紹介されてきたのか。……って、おまえがか?」


「そうです。キノって言います」


「珍しいな。幼く見えるが、ここに来たってことは……木工を見に?」


「はい。ちょっと、学んでみたくて」


「ふむ……変わった娘だな。いいさ、見ていくといい」


グレンは丸太を鉋で削りながら、淡々と作業を続ける。

木片がくるくると舞い、空気には新しい木の香りが満ちた。


「木ってのはな、鍛冶と違って“生きてる”んだ。

鉄は叩けば形になるが、木は相手を見ないと拗ねる」


「拗ねる、ですか?」


「ああ。無理に削ると割れるし、湿気を嫌う。

だから、木と話すように削るんだ」


その言葉に、キノは目を細めた。

まるで“世界の理”を聞いているようだった。


(……こういう感覚、好きかもしれない)


鉄や魔法のような力強さではなく、静かな対話。


「少し、やってみても?」


「おう。刃を立てすぎるなよ。木の目を読むんだ」


キノは木片を手に取り、慎重に鉋を押し出す。


――シャリ。


音が鳴る。

指先から伝わる抵抗と、木の呼吸。


一削りごとに、木目が変化する。


「……きれい」


「悪くねぇ。初めてにしちゃ筋がいい」


「実は、少しだけ勉強したことがあるんです」


「なるほどな。……悪い趣味じゃない」


作業の合間、キノはふと空を見上げる。


木の香りと陽光。

溶けかけた樹脂の甘い匂い。


それらが混じり合って、心の奥に懐かしい温もりを残す。


「ああ……こうして“作る”って、いいな」


小さく呟く。


それは、プレイヤーとして無限の力を持つ者の、最も人間らしい言葉だった。


グレンは手を止め、笑った。


「気に入ったなら、また来い。明日は棚板の仕上げをやる。

旅の間くらい、木の匂いに包まれてみろ」


「はい、ぜひ」


夕方。

木槌の音が止み、陽が傾くころ、キノは両手を見下ろした。

細かな木屑が指に残っている。


「……今日は“働いた”って感じだな」


風に吹かれながら、微笑む。

この世界で初めて、“生きている”実感があった。


グレンの作業場をあとにしたキノは、木屑の香りを指先に残したまま、ゆるやかな坂道を歩いていた。


「……いい匂い」


風が頬を撫でる。木々の間をすり抜けた風は、ほんのりと甘く、湿っていた。


村は思ったよりも大きかった。

家はどれも木造で、屋根の上では猫が昼寝をしている。

遠くでは、畑を耕す農夫の姿。

そして、通りの端では、子供たちが縄を跳ねて笑っていた。


「――あの、こんにちは」


近くにいた老女が、籠に野菜を詰めながら顔を上げた。


「おやまぁ、旅の方かい? 見ない顔だねぇ」


「昨日この村に来たばかりなんです。少し散歩をしてて」


「そうかいそうかい。ゆっくりしていくといいよ。

ここらは安全だが、森にはあまり近づかないことだね。

最近、魔獣が出るって噂もあるからさ」


「魔獣……」


その言葉に、キノの表情がわずかに変わる。


(魔物じゃなくて、魔獣……。この世界では分類が違う?)


彼女の視界の端に、ふわりと淡い光が浮かぶ。

半透明のUIウィンドウが、目に見えない層として重なる。


【新規情報:〈魔獣〉:未知の生態。ゲームデータに該当なし】


「……やっぱり、ここはゲームの世界じゃないんだ」


つぶやきは風に消えた。


村の中心には、小さな噴水広場があった。

子供たちが水を掛け合い、笑い声が響く。


キノはその様子を眺めながら、心の奥で静かな満足感を覚えていた。


「こういう時間……いいな」


彼女の指先には、ほんのりと“力”の波が宿る。

無意識に世界の魔素を感じ取っていた。


この世界は、確かに“生きている”。


それを肌で感じたとき、彼女の中でひとつの疑問が芽生える。


(私は、何のためにここにいるんだろう?)


その答えは、まだ見えない。

けれど、“生きている”という感触が、確かにあった。


広場を抜けると、小さなパン屋の前に出た。

窓辺に並ぶ焼き立てのパン。ふわりと漂う香りに、思わずお腹が鳴る。


「あら、旅人さん? 試食してみる?」


店の娘が差し出した小さなパンを感謝しながら受け取る。

ひと口かじると、ほのかに甘い。


「……美味しい」


「でしょう? お父さんが作った蜂蜜パンなの」


「お父さん、すごいですね」


娘は照れくさそうに笑い、手を振った。


その何気ない仕草に、キノの胸が温かくなる。


日が傾き始めるころ、キノは丘の上に立っていた。

村を見下ろすと、夕陽に照らされて家々の屋根が赤く染まっている。


その光景に、心の奥が静かに震えた。


「……きれい」


夕風が髪を揺らす。

アルガンたちの気配を異空間の向こうに感じながら、彼女は小さく微笑んだ。


「今日も、よく生きたな」


言葉は誰に向けたでもない。

ただ、そう言葉にすることが、今の彼女には心地よかった。


空に星が一つ瞬く。

村の灯がともり、穏やかな夜が訪れる。


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