第四章:神社への道
一段、一段。石段は古く、苔むしていた。
表面はざらついていて、時々滑りそうになる。懐中電灯の光が、石の表面を照らす。濡れている。夜露だろうか。両脇を、木々が覆っている。杉だろうか。
太い幹が、闇の中に立ち並んでいる。月明かりも届かない。懐中電灯の光だけが頼りだった。
「結構、急ですね」
同僚が言った。
「ああ」
私は頷いた。子供の頃は、もっと急に感じた気がする。
でも、実際に登ってみると、やはり急だ。十段、二十段。息が少し上がってくる。
足元の石段を照らしながら、一歩ずつ登る。
石は冷たく、湿っている。秋の夜の湿気が、石に染み込んでいるのだろう。
三十段。
「何段目ですかね」
同僚が聞いた。
「まだ三十くらいだと思う」
「あと百二十...」
同僚が笑った。私も笑った。
でも、その笑い声が、木々に吸い込まれていくようだった。
四十段を過ぎたあたりで、同僚が立ち止まった。
「ちょっと、休憩してもいいですか」
「ああ」
私たちは立ち止まった。振り返ると、下の方に鳥居が見える。
小さく見えた。もう、結構登ってきたようだ。
懐中電灯を消して、闇に目を慣らす。
月明かりが、わずかに木々の間から差し込んでいる。細い月だ。新月に近い。
「運動不足ですね」
同僚が息を整えながら言った。
「俺もだよ」
風が吹いた。木々がざわめく。葉が擦れ合う音が、闇の中に響く。
それ以外、何も聞こえない。虫の音も、鳥の声も、動物の気配もない。
「静かですね」
同僚が言った。
「ああ」
あまりにも静かだ。祭りをやっているなら、もっと音が聞こえてもいいはずだ。
太鼓の音、笛の音、人の声。
子供の頃は、石段を登っている途中から、祭りの音が聞こえてきた。
それを聞きながら、早く境内に着きたいと思った。
でも今は、何も聞こえない。
「祭り、本当にやってるんですかね」
同僚が聞いた。
「さあ」
私は分からなかった。
女将は「やっている」と言った。でも、この静けさは何だろう。
「まあ、行ってみよう」
私は言った。
「そうですね」
同僚は頷いた。また懐中電灯をつけて、登り始める。
五十段を過ぎた。石段の傾斜が、少しきつくなった気がする。
息が上がってくる。懐中電灯の光が、上の方を照らす。
まだ、先が見えない。ただ、石段が続いているだけだ。
「どのくらい登りましたかね」
同僚が聞いた。
「六十くらいかな」
「半分も行ってない...」
同僚が笑った。私も笑った。でも、心の中では不安が膨らんでいた。
なぜだろう。
ただの神社への道なのに。子供の頃は、こんな不安は感じなかった。
父がいたからだろうか。
七十段。木々の間から、月が見えた。細い月だ。光は弱い。
「月、出てますね」
同僚が言った。
「ああ」
その月明かりに照らされて、木々の影が伸びている。
石段の上に、黒い影が落ちている。
まるで、何かが這っているような形に見えた。
八十段。私は、子供の頃のことを思い出していた。
あの日、父と一緒にこの石段を登った。父は私の手を引いてくれた。
「頑張れ、もうすぐだ」
父はそう言ってくれた。でも私は、すでに疲れていた。足が重かった。
「お父さん、まだ?」
「もうすぐだよ」
嘘だった。まだ半分も登っていなかった。
でも、父の手を握っていれば大丈夫だと思った。
父の手は大きくて、温かかった。
九十段。
「結構、きついですね」
同僚が言った。
「ああ」
私も息が上がっていた。普段の運動不足が、こういう時に出る。
デスクワークばかりで、体を動かす機会が少ない。
「でも、あと六十段くらいですね」
「そうだな」
百段。ここまで来ると、さすがに疲れる。
足が重い。息が切れる。汗が額を伝う。
十月の夜なのに、汗をかいている。
「ちょっと、また休憩...」
同僚が言いかけた、その時。上の方から、音が聞こえた。かすかな音。
チリン、チリン。鈴の音だ。
「...何ですか、今の」
同僚が立ち止まった。
「分からない」
私も立ち止まった。耳を澄ます。風の音。木々のざわめき。
そして、また。チリン、チリン。鈴の音。
「祭りの音ですかね」
同僚が言った。
「...かもしれない」
でも、違和感があった。祭りの音にしては、静かすぎる。
太鼓も笛もない。人の声もしない。ただ、鈴の音だけ。
まるで、何かを呼んでいるような。
「行きましょうか」
同僚が言った。
「ああ」
私たちは、また登り始めた。
百十段。鈴の音が、また聞こえる。
近づいているのか、少し大きく聞こえる気がする。チリン、チリン。
規則的な音。風で揺れているのだろうか。
それとも、誰かが鳴らしているのだろうか。
百二十段。石段の周囲が、少し明るくなってきた。
月明かりが強くなったのか、木々が減ったのか。
懐中電灯の光に加えて、周囲が見えるようになってきた。
木々の間から、空が見える。星が、いくつか見えた。
百三十段。
「あと少しですね」
同僚が言った。
「ああ」
私は頷いた。
子供の頃、百三十段を過ぎたあたりで、境内が見えた記憶がある。
父が「ほら、もうすぐだ」と言って、私は顔を上げた。
上の方に、灯りが見えた。祭りの提灯の灯りだ。
それを見て、私は最後の力を振り絞って登った。
百四十段。そして、見えた。上の方に、開けた場所。境内だ。
「見えました」
同僚が言った。
「ああ」
私たちは、最後の力を振り絞って登った。
百四十五段。境内が、はっきりと見えてきた。
何か、灯りがある。オレンジ色の光。松明だろうか。
百四十八段。鈴の音が、また聞こえた。チリン、チリン。
もう、すぐ近くだ。
百四十九段。そして、百五十段。最後の一段を登った。
私たちは、境内に立った。息を切らせながら、周囲を見回す。
境内は、思ったより広かった。
中央に、しめ縄で囲まれた土俵がある。
あの土俵だ。
子供の頃、ここで相撲を取った。松明が、四隅に立てられている。
オレンジ色の炎が、闇を照らしている。
煙が、ゆらゆらと立ち上っている。
でも、人の姿はなかった。観客も、力士も、行司も。誰もいない。
「誰も、いませんね」
同僚が言った。
「ああ」
私も周囲を見回した。
祭りはどこだ。人は、どこにいる。
ただ、松明の炎が揺れているだけ。
鈴の音も、もう聞こえない。静寂だけが、境内を支配していた。
その時だった。拝殿の扉が、ゆっくりと開いた。
音もなく。まるで、私たちが来るのを待っていたかのように。
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