第4章 再び交わる季節

レストランの扉を押すと、

ほのかに漂う花の香りとグラスの音が出迎えた。


「遼、こっち。」


声の主は陽介だった。

その隣には、白いワンピースをまとった里奈が静かに微笑んでいる。


「ようやく紹介できるよ。俺の奥さん、里奈。」


「……久しぶりだね、遼くん。」


「ほんとにな。結婚おめでとう、里奈。」


「ありがとう。」


照れくさそうに笑う里奈の表情は、昔と変わらない優しさを帯びていた。

遼はグラスを軽く掲げ、二人に祝福の言葉を送った。


「で、今日は俺たちだけじゃないんだ。」


陽介がそう言って、視線を奥の席へ向けた。

その瞬間、遼の呼吸が一瞬止まった。


そこにいたのは――

淡い桜色のワンピースに身を包んだ、美桜だった。


ゆるくまとめた髪の隙間からのぞく横顔。

グラスを持つ手の細い指先。

その一つひとつが、記憶の中とまったく同じで。


「……久しぶり、遼くん。」


穏やかに、けれどどこか震える声。

彼女は視線を合わせることができないまま、微笑んだ。


「……ああ。久しぶり。」


言葉にするだけで、胸の奥がざわついた。

十年という時間が一瞬にして崩れ去る。

思い出が、音もなく胸の奥で疼いた。


「さ、座って。乾杯しよ。」


陽介がグラスを掲げた。

「じゃあ――これからも、よろしく。」


「おめでとう、陽介。里奈。」


「ありがとう。」


グラスが触れ合う音が静かに響く。

けれど、遼と美桜のグラスは、わずかに触れ合うことなく止まったままだった。



食事が進むにつれて、場の空気は和やかになっていった。

陽介が冗談を言えば、里奈が笑い、美桜も小さく笑う。

ただその笑顔の端で、遼の胸の奥は少しずつ締めつけられていく。


「最近はどうしてるの、美桜?」

里奈が穏やかに尋ねる。


「仕事は落ち着いてきたかな。部署が変わって、少し忙しくなったけど。」


「そういえば、美桜ちゃんの会社って……」

陽介が話題を振りかけて、ふと遼を見る。

「俺らの会社と提携してるんだよな?」


一瞬、時間が止まったように感じた。

遼と美桜の視線が交差し、すぐに逸れる。


「……そう、みたいね。」

美桜は静かに言葉を選んだ。


「偶然だな。」

遼は淡く笑ってみせた。

けれど、その声はどこか遠くに感じられた。


――偶然。

本当に、それだけだろうか。


テーブルの下で、彼女の指がわずかに震えていた。

その仕草ひとつで、過去の記憶が鮮明に蘇る。

春の光、笑い声、交わした約束。

それでも、言葉にはできなかった“あの日”の続きが胸を刺した。


「遼。」


名前を呼ばれて、顔を上げる。

陽介が笑っていた。


「次はお前の番だな。」


「……何の話だ。」


「結婚。俺たちだけ幸せになったらずるいだろ。」


冗談めかしたその言葉に、美桜の手が止まる。

遼は一瞬だけ彼女の横顔を見つめ、それから視線を落とした。


「……そうだな。」


その笑みはどこまでも穏やかで、どこまでも痛かった。



夜風が吹き抜ける。

店を出たあと、駐車場の端でそれぞれ別の方向へ歩き出す。

その途中、遼の背中に声が届いた。


「……遼くん。」


振り返ると、街灯の下に美桜が立っていた。

薄い光に照らされたその瞳は、十年前と同じ色をしていた。


「おめでとう、陽介くんと里奈。」


「ありがとう。」


ほんの短い沈黙のあと、美桜が微笑む。


「……元気でね。」


「……ああ。」


それだけ。

けれど、それだけで十分だった。

二人の間を通り抜けた夜風が、過ぎ去った時間の香りを運んでいった。


そして、春がまた――少しずつ近づいていた。

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