第3話 侵入(?)と彼女の定位置

「わた兄」


 その、懐かしすぎる響き。

 五年間、一度だって呼ばれることのなかった呼び名。

 それを口にしたのは、間違いなく俺の知っている完璧才女、七瀬凛だった。


「お、お前……」


 俺はあまりの衝撃に言葉を失う。

 今、こいつなんて言った?


「わた兄、って呼ぶな!」


 咄嗟に出たのは、そんな拒絶の言葉だった。

 しまった、と思った。もっと他に言い方があっただろうに。

 だが今の俺にはそれしか言えなかった。


 俺の言葉に凛は一瞬、悲しそうに目を伏せた。

 しかし、すぐに顔を上げるとむすっとした表情で俺を睨みつけてくる。


「やだ。昔は呼んでたもん」

「昔は昔、今は今だろ! 俺たちもう高二だぞ!?」

「関係ない。わた兄はわた兄だもん」


 もん、とか言うな、もん、とか。

 なんだその可愛い生き物は。俺の知ってる七瀬凛じゃない。

 学校でのあのクールビューティーはどこへ行ったんだ。


「だいたい、なんで窓から……普通に玄関から来いよ」

「えー。だって昔はずっとここからだったじゃん」

「だからそれは昔の話だろ!」


 俺と凛は窓を隔ててしばし睨み合った。

 先に折れたのは凛の方だった。

 彼女は小さくため息をつくと、諦めたように言った。


「……わかった。じゃあ、開けて」

「は?」

「部屋、入るから。言ったでしょ、『すぐ行く』って」

「いや、言ったけど! それってこういう意味だったのかよ!」

「そうだけど? じゃあどういう意味だと思ったの?」


 きょとん、と小首を傾げる凛。

 その仕草は昔の『リン』の面影を強く感じさせた。

 こいつ、マジか。本気で言ってるのか。


「……とりあえず、入れよ。そこで話してたら、お互いの親に見つかるだろ」

 俺がそう言うと、凛は「うん!」と嬉しそうに頷いた。

 そして、何の躊躇もなくひらりと窓枠を乗り越え、俺の部屋に足を踏み入れた。


「……うわ、懐かしい」


 俺の部屋に足を踏み入れた凛は、きょろきょろと室内を見渡した。

「全然変わってないね、わた兄の部屋。あ、でもベッドが大きくなってる。前はもっと子供っぽかったのに」


「そりゃ、五年も経てばベッドくらい買い替えるだろ……」

 俺は、窓の鍵を閉めカーテンを再びシャーッと閉めた。

 これでよし。とりあえず密室(?)の完成だ。


 振り返ると凛は通学カバンを床に置くと、何の断りもなく当たり前のように俺のベッドに腰掛けた。

 そこは昔、彼女がこの部屋に来た時のいつもの定位置だった。


「……お前、なんで急に」


 俺は、ベッドの前に立ち腕を組んで仁王立ちになりながら、凛を問い詰めた。

 状況が飲み込めなさすぎる。


「なんで、って?」

「いや、だから! なんで急に俺の部屋に来たり、『わた兄』なんて呼んだりするんだよ! 俺たち中学からはずっと、その……疎遠だっただろ?」


 そうだ。

 俺が一方的に避けて、彼女もそれを受け入れた。

 それであの微妙な関係性が成立していたはずだ。

 それなのに、今さらなんで。


 俺の問いに凛はベッドの上で体育座りのように膝を抱えると、その膝に顔をうずめた。

 長い黒髪がさらりと流れ落ちる。


「…………」


 凛は何も答えない。

 ただうつむいたまま黙り込んでしまった。


「……おい、リン?」


 昔の癖でうっかりそう呼びかけてしまい、慌てて口をつぐむ。

 だが、凛は顔を上げない。


 まずい。怒らせたか?

 いや、でも、こっちだって混乱してるんだ。

 完璧才女の幼馴染がいきなり部屋に窓から侵入してきて、昔の呼び名で呼んでくるんだぞ。パニックにもなる。


「あのさ、七瀬さん……」


 俺が呼び方を変えてもう一度声をかけようとした、その時。


「……やっと、同じクラスになれたのに」


 くぐもった小さな声が聞こえた。


「え?」

「高校、同じとこ受かったって聞いて、すごく嬉しかったのに。一年生の時、クラス違ったから……」

「…………」

「今年、クラス替えの発表、ずっとドキドキしてた。わた兄と同じクラスだって分かった時、私……」


 そこまで言って、凛は言葉を切った。

 そして、ゆっくりと顔を上げる。

 その目は少しだけ赤く潤んでいるように見えた。


「……わた兄が、隣の席ですごく嬉しかったのに」


 そう言った凛の表情は、俺の知らない弱々しい、泣きそうな笑顔だった。


「なのにわた兄、私と隣でため息ついた」

「!」


 しまった。

 見られていたのか。

 いや、まぁ隠してはいなかったが。


「ち、違う! あれは別に、七瀬さんが嫌とかじゃなくて!」

「……『七瀬さん』」


 凛が、俺の言葉を遮るように小さく呟いた。

 その声は、ひどく冷たく響いた。


「わた兄は、もう私のこと『リン』って呼んでくれないんだね」


 その瞳が、俺をまっすぐに見つめてくる。

 それは、非難の色でも、怒りの色でもなかった。

 ただただ、ひたすらに悲しそうだった。


 俺は、何も言えなかった。

 彼女がそんな顔をするなんて、想像もしていなかったから。

 学校での、あの完璧で、クールな『七瀬凛』しか知らなかったから。


「……ごめん」


 結局、俺の口から出たのはそんな情けない一言だけだった。

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