楽器選択と基礎練習

「さあ、今日からは実際に楽器を触ってもらうぞ」

 田中先生が部室に入ってくると、メンバーたちは緊張した表情で迎えた。

「翔太、お前はギターだったな?」

「はい」

 翔太は少し震え声で答えた。実は昨夜、ギターについてインターネットで調べまくっていた。コードの押さえ方、ピックの持ち方、基本的な奏法……頭の中は情報でいっぱいだった。

「こいつを使え」

 田中先生が壁に立てかけてあったアコースティックギターを取り出した。木目が美しく、よく手入れされた楽器だった。

「先生のギターですか?」

「ああ、俺が高校生の時から使ってる相棒だ。大切に扱えよ」

 翔太は恐る恐るギターを受け取った。想像していたよりもずっと重く、抱えただけで緊張が高まった。

「太一はドラムセットだ」

 部室の奥に置かれたドラムセットを指差す田中先生。太一の目が輝いた。

「やった! ずっと叩いてみたかったんです」

「ただし、最初は静かにな。いきなりフルパワーで叩いたら近所から苦情が来る」

 蓮はベースギターを、美月は電子ピアノの前に座った。花音だけは楽器がない。

「花音さんは歌だから、まずはマイクの使い方から覚えようか」

「はい」

 花音が嬉しそうに頷いた。実は軽音楽部を設立した時から、このマイクを使って歌うことを夢見ていた。

「それじゃあ、まずは翔太から始めよう」

 田中先生が翔太の隣に座った。

「ギターの基本は、まずチューニングからだ」

「チューニング?」

「弦の音程を合わせることだよ」

 田中先生が手際よく六本の弦を弾きながら、ペグを回していく。正確な音程に合わせるその技術に、翔太は見とれてしまった。

「じゃあ、まずはギターの構え方から」

 翔太は田中先生の指導に従って、ギターを膝の上に置いた。

「もう少し体に密着させて……そう、それでいい」

 ギターを正しく構えるだけでも、思った以上に難しかった。左手で弦を押さえ、右手でピックを持つ。これだけで精一杯だった。

「最初は簡単なコードから覚えよう。これがCコードだ」

 田中先生が左手の指の位置を教えてくれた。人差し指を1フレット目の2弦に、中指を2フレット目の4弦に、薬指を3フレット目の5弦に置く。

「こ、こうですか?」

 翔太は必死に指を動かしたが、思うように弦を押さえられない。

「指が届かない……」

「最初はみんなそうだ。無理に力を入れる必要はない」

 田中先生が翔太の左手を軽く支えてくれた。

「もう少し親指の位置を下げて……そう、それでいい」

 ようやく正しい形になったが、今度は右手のピッキングがうまくいかない。

「ピックはそんなに強く握らなくていい」

「あ、はい……」

 翔太が恐る恐る弦を弾くと、ぽろんと音が鳴った。しかし、それは決して美しい音ではなかった。

「弦がちゃんと押さえられていないな」

 田中先生が指摘する通り、音が途切れ途切れになっていた。

「指が痛い……」

 翔太の左手の指先には、すでに弦の跡がついていた。

「最初は指の皮が薄いからな。そのうち固くなって痛くなくなる」

 その間、他のメンバーも各々の楽器に向き合っていた。

 美月は電子ピアノの前で、軽音楽特有の奏法を試していた。クラシック音楽とは違う、よりリズミカルで自由度の高い演奏スタイルに戸惑いを感じていた。

「美月ちゃん、そのピアノの音、変えられるの?」

 花音が興味深そうに覗き込んだ。

「はい、いろいろな音色に設定できます」

 美月がボタンを押すと、グランドピアノからエレクトリックピアノ、シンセサイザーまで様々な音が出た。

「すごい! 私、電子ピアノってこんなに種類があるなんて知らなかった」

「私も実は……今まではアコースティックピアノしか使ったことがなくて」

 美月は正直に答えた。軽音楽部に入って初めて知ることばかりだった。

 一方、太一はドラムセットに向かって、目を輝かせていた。

「これがスネアドラム、こっちがタム、これがシンバル……」

 一つ一つの楽器の名前を覚えながら、軽くスティックで叩いてみる。

「うおー! めちゃくちゃかっこいい音がする!」

「太一、もう少し静かに」

 蓮が冷静に注意した。

「あ、ごめん」

 太一は慌てて音量を下げたが、その興奮は隠せなかった。

 蓮はベースギターを手に、黙々と基本的な運指練習をしていた。ギターと似ているが、弦が太く、より低い音域を担当する楽器だった。

「蓮くん、ベースって難しい?」

 翔太がギターの練習の合間に聞いた。

「そうですね……ギターとは違った難しさがあります」

 蓮が冷静に答える。

「ベースはバンド全体のリズムと和声の土台を支える楽器です。目立たないけれど、とても重要な役割を担っています」

 翔太は蓮の真面目な姿勢に感心した。自分もこんな風に楽器と真摯に向き合わなければ。

「翔太、今度はGコードを覚えてみよう」

 田中先生が次のコードを教えてくれた。今度は小指まで使う、より複雑な指の配置だった。

「むずかしい……」

 翔太は必死に指を動かしたが、なかなかうまくいかない。Cコードでさえまともに音が出ないのに、Gコードなんて到底無理に思えた。

「無理しなくていい。今日は基本的な構え方と、一つのコードができるようになれば十分だ」

 田中先生の優しい言葉に、翔太は少しだけほっとした。

 30分ほど練習した頃、翔太の左手の指先は真っ赤になっていた。弦を押さえるたびに痛みが走る。

「もう限界かも……」

 翔太がギターを置くと、美月が心配そうに見つめていた。

「翔太くん、大丈夫ですか?」

「あ、はい……指が痛くて」

 翔太は恥ずかしそうに左手を見せた。

「私も最初はそうでした」

 美月が優しく微笑んだ。

「ピアノを始めた頃、指が痛くて泣いたことがあります」

「美月さんが?」

「はい。でも続けていれば、必ず慣れます」

 美月の言葉に、翔太は勇気づけられた。あの完璧に見える美月さんにも、苦労した時期があったのか。

「花音ちゃんは歌の練習、どうだった?」

 太一がドラムスティックを置いて聞いた。

「うーん、マイクを使って歌うのって、思ったより難しい」

 花音が困ったような表情を見せた。

「マイクとの距離とか、声の出し方とか……普通に歌うのと全然違う」

「そうなんだ」

「でも楽しい!」

 花音の表情が明るくなった。

「みんなで音楽を作っているって感じがして、すごくワクワクする」

 その言葉に、翔太の心も軽やかになった。確かに痛みや難しさはあるけれど、仲間と一緒に音楽に取り組むことの楽しさは、それを上回っていた。

「よし、今日はここまでにしよう」

 田中先生が時計を見て言った。

「翔太、無理は禁物だ。指の皮が固くなるまでは、短時間の練習を心がけろ」

「はい」

 翔太は素直に頷いた。

「来週までに、Cコードだけでも綺麗に音が出るようになれば上出来だ」

「がんばります」

 楽器を片付けながら、メンバーたちは今日の練習について話し合った。

「みんな、それぞれの楽器で頑張ってるね」

 花音が嬉しそうに言った。

「まだ始まったばかりですけどね」

 蓮が冷静にコメントした。

「でも、これから少しずつ上達していけば、いつかちゃんとした合奏ができるようになりますよね」

 美月の言葉に、翔太は頷いた。

「そうですね。今は一人一人がバラバラだけど、いつか5人の音が合わさって、一つの音楽になる」

「その時が楽しみだな」

 太一が明るく言った。

 部室を出る時、翔太は左手の指先を見つめた。痛みはあるが、それは自分が音楽に挑戦している証でもある。

 家に帰ってからも、翔太は左手の指を動かしてみた。Cコードの形を作ろうとするが、ギターがないと感覚が分からない。

「明日も練習、がんばろう」

 翔太は決意を新たにした。

 美月も家に帰ってから、電子ピアノの音色の多様性について考えていた。クラシック音楽一筋だった自分にとって、軽音楽の世界は新鮮な驚きに満ちていた。

「軽音楽の可能性……まだまだ知らないことがたくさんある」

 美月は新しい挑戦に心を躍らせていた。

 翌日の昼休み、翔太は図書館でギター関連の本を読んでいた。コードの押さえ方、練習方法、有名なギタリストの話……吸収できることは何でも吸収したかった。

「翔太くん」

 振り返ると、美月が立っていた。

「あ、美月さん」

「ギターの勉強をしているんですね」

「はい。でも本を読むだけじゃ、実際にはよく分からなくて……」

「分かります。楽器は実際に触らないと身につきませんから」

 美月が隣の席に座った。

「私も軽音楽について調べているんです」

 美月が手にしていたのは、ロックやポップスの歴史について書かれた本だった。

「すごく奥が深いんですね、軽音楽って」

「そうなんですか?」

「はい。クラシック音楽とは違った発展の仕方をしていて、とても興味深いです」

 美月の目が輝いていた。新しい音楽の世界を知ることの喜びが、表情に表れていた。

「美月さんは、どうして軽音楽部に入ったんですか?」

 翔太は以前から気になっていたことを聞いた。

「翔太くんの演奏を聞いたからです」

「え?」

「あの時、翔太くんがピアノの前で歌っていた時……」

 美月が少し恥ずかしそうに言った。

「すごく心に響いたんです。技術的には未熟でしたけど、心から音楽を楽しんでいる姿が美しくて」

 翔太は驚いた。あの時の自分の姿が、美月さんを動かしていたなんて。

「僕なんて、まだ全然下手くそで……」

「下手でもいいじゃないですか」

 美月が微笑んだ。

「大切なのは、音楽を愛する気持ちです」

 その言葉に、翔太は深く感動した。美月さんは音楽科のエースでありながら、技術よりも心を大切にしている。

「僕も、もっと上手になりたいです」

「一緒に頑張りましょう」

 美月の優しい笑顔に、翔太は勇気をもらった。

 その日の放課後、軽音楽部の練習は昨日より活気があった。

「今日は昨日よりも長く練習できそうですね」

 美月が電子ピアノの前に座りながら言った。

「指の痛み、どうですか?」

「まだちょっと痛いですけど、我慢できる程度です」

 翔太は昨日よりも自信を持ってギターを構えた。

「よし、今日は新しいコードを覚えよう」

 田中先生がFコードを教えてくれた。これはさらに難易度の高いコードで、人差し指で複数の弦を同時に押さえる「バレーコード」という技術が必要だった。

「うわー、これは難しい……」

 翔太は必死に指を動かしたが、全く音が出ない。

「Fコードは初心者の最初の難関だ。できなくても落ち込むな」

 田中先生の言葉に、翔太は少しほっとした。

 しかし、周りを見ると、美月は既に電子ピアノで複雑な演奏をしているし、蓮もベースラインを正確に弾いている。太一もドラムのリズムパターンを覚え始めていた。

 自分だけが取り残されているような気分になった。

「翔太くん、無理しないでください」

 美月が心配そうに声をかけてくれた。

「はい……」

 翔太は情けない気持ちになった。みんなの足を引っ張ってしまっているのではないか。

「でも、頑張ります」

 翔太は決意を込めて言った。みんなについていけるように、誰よりも努力するつもりだった。

 練習が終わって部室を出る時、翔太の指はさらに痛くなっていた。でも、昨日よりもCコードの音は綺麗になった気がする。

「少しずつでも、前に進んでいる」

 翔太は自分に言い聞かせながら、家路についた。

 その夜、翔太は右手でピックを持つ練習を繰り返していた。ギターがなくても、ピッキングの動作だけは練習できる。

「絶対に上手になって、みんなと一緒に素敵な音楽を作りたい」

 翔太の決意は、日を追うごとに強くなっていった。

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