美月の参加理由
翔太たちが軽音楽部の危機について話し合っていた頃、星野美月は自宅の防音室でピアノに向かっていた。
指先が鍵盤の上を滑るように動き、ショパンの「別れの曲」が静寂を破って響く。完璧な技術、正確な音程、申し分ない表現力——客観的に見れば、非の打ち所のない演奏だった。
しかし美月自身は、どこか満足していなかった。
「美月、夕食よ」
母親の麗子の声が聞こえ、美月は演奏を止めた。
「はい、今行きます」
リビングに向かうと、すでに家族全員が揃っていた。父の雄一郎、母の麗子、そして音大2年生の兄・颯太。星野家の夕食は、いつも音楽の話題で持ちきりだった。
「美月、今日の練習はどうだった?」
父が箸を置きながら聞いた。
「はい、ショパンの『別れの曲』を中心に練習しました」
「そうか。来月のコンクールに向けて、調子はどうだ?」
「……まあまあです」
美月の返事は曖昧だった。技術的には問題ない。でも、何かが物足りない。
「颯太はどうだ? 大学での様子は」
「今度の演奏会で、ブラームスのヴァイオリンソナタを弾くことになりました」
兄が嬉しそうに報告した。
「さすがだな。美月も兄を見習って頑張れよ」
「はい……」
美月は素直に頷いたが、心の中では複雑な感情が渦巻いていた。
食事の途中で、颯太が話題を変えた。
「そういえば美月、学校では軽音楽部っていうのがあるらしいね」
「え?」
美月は箸を止めた。
「同じ音大の友達から聞いたんだ。桜丘高校の軽音楽部、最近新入部員が入ったとか」
父の表情が急に厳しくなった。
「軽音楽部か……あまり感心しないな」
「どうしてですか?」
美月が素朴な疑問を口にすると、父はため息をついた。
「軽音楽というのは、いわば音楽の『ファストフード』のようなものだ。手軽で親しみやすいが、深みがない」
「雄一郎……」
母が心配そうに夫を見たが、父は続けた。
「本物の音楽というのは、長年の修練と深い理解によって生まれるものだ。軽音楽では、そういった本質的な部分が軽視されている」
美月は黙って聞いていたが、心の中では別のことを考えていた。翔太と出会った日のことを思い出していたのだ。
あの時の翔太の表情——純粋に音楽に感動している姿。技術や理論は知らなくても、心から音楽を愛している様子が伝わってきた。
「でも……」
美月が口を開きかけたが、父の視線が厳しくなり、言葉を飲み込んだ。
「美月は音楽科の誇りを背負っているんだ。軽音楽などに惑わされてはいけない」
夕食後、美月は自分の部屋にこもった。机の上には楽譜が積み重ねられ、壁にはこれまでのコンクールの賞状がずらりと並んでいる。
窓の外を見ると、夜空に星が輝いていた。
「軽音楽か……」
美月は小さく呟いた。父の言葉とは裏腹に、軽音楽への興味は消えなかった。むしろ、禁止されることで余計に気になってしまう。
翌日の昼休み、美月は一人で中庭のベンチに座っていた。いつものように楽譜を読んでいると、同じ音楽科の友人・雨宮詩織が近づいてきた。
「美月ちゃん、一人?」
「詩織先輩……」
詩織は美月の隣に座った。3年生で生徒会副会長を務める詩織は、美月にとって憧れの存在でもあった。
「最近、軽音楽部の話をよく聞くのよね」
詩織が何気なく口にした言葉に、美月の心臓が跳ねた。
「軽音楽部ですか?」
「ええ。新入部員が入って、活動が活発になってるみたい」
詩織の表情は複雑だった。
「でも、所詮は軽音楽よね。私たちがやっているクラシック音楽とは別物だわ」
「……そうですね」
美月は曖昧に答えた。
「美月ちゃんはどう思う? 軽音楽について」
詩織の質問に、美月は困惑した。本音を言えば興味があるが、先輩の前でそんなことは言えない。
「よく分かりません……でも、音楽は音楽だと思います」
「音楽は音楽?」
「はい。形は違っても、人の心を動かすという点では同じなのかな、と……」
詩織は少し驚いたような表情を見せた。
「意外ね。美月ちゃんがそんな風に考えているなんて」
「え?」
「でも、軽音楽部の子たちって、基礎もできてないのに音楽をやってるのよ? それでも同じ音楽だと思う?」
美月は答えに困った。確かに技術的な基礎は大切だが、それがすべてなのだろうか。
その時、校舎の方から軽やかな歌声が聞こえてきた。軽音楽部の練習だろうか。メロディは聞いたことのないオリジナル曲のようだった。
「あら、軽音楽部の練習かしら」
詩織が少し眉をひそめた。
「音楽棟で練習してるのね」
美月は歌声に聞き入っていた。技術的には完璧ではないかもしれない。でも、感情がストレートに伝わってくる。
「ちょっと見に行ってみませんか?」
美月が提案すると、詩織は驚いた。
「見に行く? 軽音楽部を?」
「はい……どんな練習をしているのか、気になります」
詩織は少し考えてから頷いた。
「まあ、見学するだけなら……研究のためにもなるかもしれないわね」
二人は音楽棟の地下に向かった。階段を降りると、防音室からエレキギターとベース、ドラムの音が聞こえてくる。
部室の前に着くと、中の様子が少し見えた。先日出会った翔太が、ギターを必死に練習している姿があった。
「あの子……」
美月は翔太の真剣な表情を見つめた。指先は血豆だらけで、それでも諦めずに練習を続けている。
「知ってるの?」
「少し……前に話したことがあります」
部室では、花音が翔太に優しく指導していた。
「翔太くん、焦らなくていいのよ。ゆっくりでいいから、正確に押さえて」
「はい……でも、みなさんに迷惑をかけてしまって」
「迷惑だなんて! みんな最初は初心者だったのよ」
その時、蓮が演奏を止めて口を開いた。
「翔太、君は技術を気にしすぎだ」
「え?」
「音楽で一番大切なのは、技術じゃない。心だ」
蓮の言葉に、美月の心が大きく揺れた。
「心……」
「ああ。どんなに技術が完璧でも、心がこもっていなければ人の心は動かせない」
「でも、基礎ができてなければ……」
翔太が不安そうに言うと、花音が笑顔で答えた。
「基礎は大切よ。でも、音楽への愛情があれば、基礎は後からついてくるわ」
美月は胸が苦しくなった。花音の言葉は、自分が長い間感じていた疑問に答えているようだった。
技術は完璧だが、心がこもっているだろうか。人の心を動かしているだろうか。
「どう? 見た感想は」
詩織が小声で聞いた。
「……思っていたより、真剣に取り組んでいますね」
「でも、やはり基礎が……」
その時、軽音楽部の面々が新しい曲の練習を始めた。翔太の拙いギター、花音の感情豊かな歌声、蓮の安定したベース、太一の力強いドラム。
技術的には完璧ではない。でも、何か特別なものがあった。
「すごい……」
美月は思わず呟いた。
「何が?」
「みんな楽しそうです……音楽を心から楽しんでいる」
詩織は複雑な表情をした。
「楽しいだけじゃダメでしょう? 音楽はもっと真剣に……」
「でも」
美月が詩織を見つめた。
「楽しそうに演奏している彼らの方が、私よりも生き生きして見えます」
「美月ちゃん……」
練習が一段落すると、翔太が疲れたような表情を見せた。でも、その顔には充実感があふれていた。
「ありがとうございました。今日も勉強になりました」
「お疲れさま。少しずつ上達してるわよ」
花音が優しく微笑んだ。
「でも、まだまだ足りませんよね……僕なんかが混ざって、申し訳ありません」
「何を言ってるの!」
花音が翔太の肩を叩いた。
「翔太くんがいてくれるから、バンドが成り立ってるのよ。一人一人が大切な存在なの」
美月は花音の言葉に感動していた。自分の世界では、常に競争があった。誰かと比較され、常に完璧を求められる。
でも軽音楽部では、お互いを支え合い、認め合っている。
「帰りましょうか」
詩織が美月を促したが、美月はもう少し見ていたかった。
「詩織先輩、私……」
「何?」
「軽音楽部に興味があります」
詩織は驚いて美月を見つめた。
「興味って……まさか入部したいとか?」
「分かりません……でも、あの人たちみたいに音楽を楽しみたいんです」
「美月ちゃん、あなたは音楽科のエースよ? そんなことを言ったら、みんなが驚くわ」
「でも……」
美月の心は決まりつつあった。完璧な技術よりも、心のこもった音楽。競争よりも協調。
そんな音楽をやってみたかった。
「考え直した方がいいわ」
詩織が心配そうに言った。
「あなたの才能がもったいないもの」
でも美月の心は、もう軽音楽部に向かい始めていた。あの温かい空気の中で、本当の音楽を見つけられるかもしれない。
夕方、家に帰った美月は、再び防音室でピアノに向かった。いつものようにショパンを弾き始めたが、今日は何かが違った。
軽音楽部で見た光景が頭に浮かび、自然と演奏に感情が込められていく。
「これが……心のこもった音楽……」
美月は初めて、自分の演奏に満足することができた。技術だけではない、何か大切なものが込められている気がした。
その夜、美月は一つの決意を固めた。
明日、軽音楽部を訪ねてみよう——。
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