軽音楽部の現状
軽音楽部での初練習から一週間が経った。翔太は毎日放課後になると、足早に音楽棟の地下へと向かうのが習慣になっていた。
「おはようございます!」
元気よく部室のドアを開けると、すでに花音と蓮が機材の準備をしていた。
「おはよう、翔太くん」
花音が明るく振り返る。しかし、その笑顔には少し疲れた様子が見て取れた。
「太一はまだかな」
翔太がキョロキョロと辺りを見回すと、蓮が冷静な口調で答えた。
「野球部の練習が長引いてるらしい。昨日も途中で抜けていったな」
翔太は少し心配になった。太一は軽音楽部に入部を決めたものの、元々野球部に所属していたこともあり、どちらを優先すべきか迷っているようだった。
「大丈夫かな、太一……」
「まあ、彼なりに考えているんだろう」
蓮が眼鏡を押し上げながら言う。
「それより翔太、今日はコードの復習から始めよう。昨日のC-Am-F-Gの進行、まだ指が覚えてないだろう?」
「はい……」
翔太は素直に頷いた。一週間練習しているが、まだまだぎこちない。指は痛いし、きれいな音が出せないことも多い。
「焦らなくてもいいのよ」
花音がアコースティックギターを翔太に手渡した。
「私も最初は全然ダメだったもの。大切なのは続けることよ」
翔太がギターを構えて練習を始めた時、部室のドアがゆっくりと開いた。
「失礼します」
低く落ち着いた声が響く。振り返ると、そこには見知らぬ男性が立っていた。三十代前半くらいで、少し長めの髪をした、どこか音楽家らしい雰囲気を醸し出している。
「あ、田中先生!」
花音が嬉しそうに立ち上がった。
「お疲れさまです」
「お疲れ様。調子はどうだい?」
田中と呼ばれた男性──田中一郎先生は、軽音楽部の顧問教師だった。
「紹介するわ。朝比奈翔太くん、新入部員よ」
「よろしくお願いします」
翔太は慌てて立ち上がり、深くお辞儀をした。
「よろしく。田中一郎だ」
先生は優しく微笑んだ。
「ギターを始めたのかい?」
「はい、でもまだ全然……」
「最初はそんなものさ。僕も最初はFコードが押さえられなくて、何度も挫折しかけたよ」
田中先生の言葉に、翔太は少しホッとした。この先生なら、きっと優しく指導してくれそうだった。
「でも先生、最近ちょっと問題があって……」
花音の表情が急に曇った。
「問題?」
「実は……」
蓮が重い口を開いた。
「昨日、生徒会から通達があったんです」
田中先生の表情も険しくなった。
「どんな内容だった?」
「部員数の件です」
花音が机の上の書類を先生に見せた。
「最低部員数5名を満たしていない部活動は、今学期末までに条件を満たさなければ廃部とする、と」
翔太は驚いた。確かに現在の部員は、花音、蓮、そして自分と太一の4名。しかも太一は正式入部の手続きをまだ済ませていない。
「厳しいな……」
田中先生がため息をついた。
「生徒会長の黒田君、軽音楽部に対してあまり良い印象を持っていないからな」
「黒田生徒会長が?」
「ああ。彼は音楽科出身で、クラシック音楽至上主義なんだ」
先生が苦笑いした。
「軽音楽は『本物の音楽』じゃないと思っているらしい」
翔太の脳裏に、美月の言葉がよみがえった。「音楽は簡単なものではない」……まさか美月も同じような考えを持っているのだろうか。
「でも、僕たちの音楽だって立派な音楽ですよね」
翔太が思わず口にすると、花音と蓮が驚いたように振り返った。
「翔太くん……」
「音楽に上も下もないと思います。大切なのは、聴く人の心に響くかどうかじゃないでしょうか」
田中先生が感心したように頷いた。
「その通りだ。君はいいことを言う」
でも先生の表情は相変わらず深刻だった。
「ただ、現実問題として部員が足りないのは事実だ。このままでは本当に廃部になってしまう」
「あと1人……あと1人いれば」
花音が拳を握りしめた。
「この前の新入生歓迎会では、誰も興味を示してくれなかったし……」
「音楽科の生徒たちが、新入生に軽音楽部の悪口を言って回ってるらしいからな」
蓮が苦々しげに付け加えた。
翔太は胸が痛くなった。音楽を愛する気持ちは同じはずなのに、なぜこんなに対立しなければならないのだろう。
その時、部室のドアが勢いよく開いた。
「遅れてすみません!」
太一が息を切らして駆け込んできた。
「野球部の練習が……」
太一は部室の重い空気に気づき、キョロキョロと辺りを見回した。
「何かあったんですか?」
花音が事情を説明すると、太一の顔も青ざめた。
「廃部って……そんな」
「太一、君は野球部と掛け持ちだったよな」
田中先生が確認した。
「はい……でも、軽音楽部も本気でやりたいと思ってます」
「そうか。でも野球部の方が忙しそうだな」
太一は困ったような表情を見せた。確かに野球部は毎日練習があり、軽音楽部の活動時間と重なることも多い。
「先生、予算の問題もあるんです」
蓮が追い打ちをかけるように言った。
「音楽科に比べて、軽音楽部に割り当てられる予算は五分の一程度です」
「そうなのか……」
翔太は知らなかった。
「機材の維持費、楽譜代、コンクールの参加費……全部自分たちで何とかしなければなりません」
花音が説明を続けた。
「去年は文化祭での演奏も、音楽科の後の時間帯しかもらえなくて、ほとんど人が残ってませんでした」
翔太は愕然とした。同じ学校の中で、ここまで格差があるなんて思いもしなかった。
「不公平じゃないですか」
翔太が憤りを込めて言うと、田中先生が苦笑いした。
「君の気持ちはよく分かる。でも、これが現実なんだ」
「音楽科の生徒たちは、幼い頃から何十万、何百万とかけて楽器を習っている。その技術と情熱は本物だ」
「でも……」
「だからといって、軽音楽が劣っているわけじゃない」
先生が続けた。
「音楽には色々な形がある。クラシックも素晴らしいが、ポップスもロックもジャズも、それぞれに価値がある」
「先生……」
花音が感動したような表情で先生を見つめた。
「僕も昔はバンドをやっていたからな」
田中先生が照れ臭そうに笑った。
「『Blue Sky』って知ってるか? マイナーなインディーズバンドだけど」
「え!」
蓮が驚いて身を乗り出した。
「『Blue Sky』って、10年前にメジャーデビューしたあの『Blue Sky』ですか?」
「よく知ってるな」
「僕、大ファンだったんです! 『夏の終わりに』って曲、今でもよく聞いてます」
翔太と花音は、蓮の興奮ぶりに驚いた。普段冷静な蓮が、こんなに感情を表に出すなんて珍しい。
「先生がプロミュージシャンだったなんて……」
花音がため息をついた。
「元プロ、だけどな」
先生が苦笑いした。
「結局、大きな成功は掴めなかった。でも、音楽をやっていて良かったと思ってる」
「どうして教師になったんですか?」
翔太が素朴な疑問を口にした。
「音楽の素晴らしさを伝えたかったからさ」
先生の目が優しく光った。
「特に、君たちのように純粋な気持ちで音楽を愛する子どもたちに」
部室に温かい空気が流れた。でも、現実の問題は依然として残っている。
「先生、どうしたらいいでしょう」
花音が真剣な表情で聞いた。
「廃部は避けたいです。この部活は私にとって大切な場所なんです」
田中先生は少し考えてから答えた。
「まずは正式な部員を5人集めることだ。そして、軽音楽部の存在価値を学校に示すことだな」
「存在価値?」
「文化祭での演奏だ」
先生の目に決意の光が宿った。
「今年の文化祭で、観客を感動させる演奏ができれば、きっと学校も軽音楽部の価値を認めてくれる」
「でも、あと1人どうやって集めれば……」
花音が不安そうに呟いた。
翔太は再び美月のことを考えていた。彼女の複雑な表情、クラシック音楽への疑問……もしかしたら、彼女こそが軽音楽部に必要な人材かもしれない。
でも、音楽科の生徒が軽音楽部に入るなんて、現実的に可能なのだろうか。周りの反対や、家族からのプレッシャーもあるだろう。
「とりあえず、今できることをやろう」
田中先生が立ち上がった。
「君たちの演奏技術を向上させることだ。太一君も、可能な限り練習に参加してくれ」
「はい!」
太一が元気よく返事した。
「僕も頑張ります」
翔太も決意を新たにした。
練習が始まると、翔太は必死にギターの練習に取り組んだ。指先は相変わらず痛いが、少しずつコードチェンジがスムーズになってきている。
花音の歌声は今日も美しく、蓮のベースは安定している。太一は野球で鍛えた体力で、力強いドラミングを披露した。
でも、翔太には分かっていた。4人だけでは限界があることを。特に、メロディを担当するキーボードやピアノの音が欠けている。
練習を終えて部室を出る時、翔太は音楽棟の上階を見上げた。あそこで美月が練習しているのだろうか。
「美月さん……」
翔太が小さく呟いた時、花音が気づいた。
「翔太くん、まだその子のことを考えてるの?」
「え? あ、はい……」
翔太は慌てて顔を赤らめた。
「星野美月ちゃんね」
花音の表情が少し複雑になった。
「確かに彼女は才能があるわ。でも……」
「でも?」
「音楽科の子が軽音楽部に入るなんて、ほとんど不可能よ」
花音が寂しそうに微笑んだ。
「私たちは所詮、『格下』の存在だから」
翔太は花音の言葉に胸が痛んだ。こんなに素晴らしい音楽をやっているのに、なぜ『格下』扱いされなければならないのか。
「でも、僕は信じてます」
翔太が真剣な顔で言った。
「音楽に格上も格下もない。大切なのは、心から音楽を愛することだって」
花音の目に涙が浮かんだ。
「翔太くん……ありがとう」
夕陽に染まる音楽棟を背にして、翔太たちは家路についた。廃部の危機、部員不足、予算の問題……困難は山積みだった。
でも翔太の心には、諦めない気持ちが宿っていた。きっと道はあるはずだ。美月との出会いも、軽音楽部との出会いも、偶然ではないような気がしていた。
明日もまた、音楽という夢に向かって歩き続けよう。翔太はそう心に誓った。
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