新入生の探検
入学式から三日が経った放課後。翔太と太一は、まだ慣れない校舎を探検していた。
「おい翔太、あっちに行ったことある?」
太一が指差したのは、本館から少し離れた場所にある音楽棟だった。赤レンガ造りの本館とは対照的に、ガラス張りの近代的な建物が夕日に輝いている。
「ああ、音楽棟か。まだ入ったことはないな」
「俺も。なんか敷居が高そうだけど、見学するくらいならいいんじゃない?」
二人は音楽棟に向かって歩き始めた。中庭を横切る途中で、数人の先輩とすれ違う。皆、楽器ケースを持っていて、どことなく上品な雰囲気を醸し出している。
「やっぱり音楽科の人たちって、なんか違うよな」
太一が小声で呟く。
「オーラが違うっていうか……」
「まあ、小さい頃から音楽やってるんだろうからな」
翔太は素直に感心していた。自分には縁のない世界だと思いながらも、どんな環境なのか興味が湧く。
音楽棟のエントランスは吹き抜けになっていて、天井が高い。壁には著名な音楽家の写真や、この学校の卒業生が活躍している記事などが飾られている。
「うわ、すげー」
太一が目を丸くした。
「この学校って、こんなにすごい人たちを輩出してるのか」
翔太も同じように驚いていた。有名なピアニスト、オーケストラの指揮者、オペラ歌手……そうそうたる顔ぶれが並んでいる。
「俺たちが通ってる学校と同じとは思えないな」
「本当だよ。なんか別世界みたい」
二人は恐る恐る廊下を歩いた。左右には練習室が並んでいて、各部屋からは様々な楽器の音が漏れ聞こえてくる。ピアノ、ヴァイオリン、フルート、チェロ……まるで楽器の博物館にいるようだった。
「すげー、みんな上手いな」
太一が感嘆の声を上げる。
「こんな環境で毎日練習してたら、そりゃあ上達するよな」
翔太は一つ一つの音に耳を澄ませていた。どの音も美しく、聞いているだけで心が洗われるような気がする。特にピアノの音色は、入学式の日に聞いた「別れの曲」を思い出させた。
「あ、そうだ」
翔太は太一の袖を引っ張った。
「入学式の日に聞いたピアノの音、すごく綺麗だったんだ。この辺りから聞こえてきたと思うんだけど」
「へー、そうだっけ? 俺は全然覚えてないや」
太一は苦笑いした。
「音楽のことはよくわからないからなあ」
二人が廊下の奥に進んでいくと、案内板が目に入った。
「練習室使用時間:平日17時まで、土日16時まで」
「音楽科生徒以外の立ち入りについては事前許可が必要です」
「あ、やばい」
太一が慌てたように振り返る。
「俺たち、許可取ってないよな?」
「うーん、でも見学するだけなら……」
翔太がそう言いかけた時、向こうから一人の先輩が歩いてきた。長い髪をポニーテールにまとめた、上品な印象の女子生徒だ。手には楽譜ファイルを持っている。
「あの……君たち、音楽科の生徒?」
声をかけられて、二人は緊張した。
「あ、いえ、普通科です」
翔太が慌てて答える。
「見学させていただいてました。すみません、許可を取らずに……」
先輩は少し困ったような表情を見せた。
「そうね……本来なら事前に許可が必要なんだけど」
でも、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「まあ、見学くらいなら大丈夫よ。私は3年の雨宮詩織。生徒会副会長もやってるの」
「あ、ありがとうございます! 僕は朝比奈翔太、こっちは早川太一です」
「1年生ね。音楽に興味があるの?」
詩織の質問に、翔太は少し戸惑った。
「えっと……よくわからないんですが、この前ピアノの音を聞いて、すごく綺麗だなって思って」
「そう。それは良いことね」
詩織の表情が少し和らいだ。
「音楽は聞く人の心を豊かにしてくれるから。ただ……」
彼女は少し言いにくそうに続けた。
「音楽科は本格的に音楽を学ぶ場所だから、遊び半分で来る人には少し厳しいかもしれないわ」
翔太と太一は黙って頷いた。確かに、ここにいる人たちの真剣さは伝わってくる。
「でも、音楽に興味を持つのは素晴らしいことよ。もし本当に音楽をやってみたいなら、普通科にも軽音楽部があるし」
「軽音楽部?」
太一が興味深そうに聞き返した。
「ええ。ポップスやロックを演奏する部活よ。音楽棟の地下に部室があるの」
詩織は親切に教えてくれたが、その表情にはどこか複雑なものが感じられた。まるで「格下」の扱いをしているような……翔太はそんな印象を受けた。
「あ、そうだ」
詩織が思い出したように言った。
「今度、軽音楽部が新入部員の勧誘をやるって聞いたわ。興味があったら覗いてみたら?」
「ありがとうございます」
翔太は素直に頭を下げた。でも、心のどこかで違和感も感じていた。なぜ軽音楽部の話をする時だけ、詩織の口調が変わったのだろう。
詩織と別れて、二人は音楽棟を後にした。
「なんか、すごい世界だったな」
太一が感慨深げに呟く。
「でも、あの先輩、軽音楽部のことを話す時、ちょっと変じゃなかった?」
「気のせいじゃないよな……」
翔太も同じことを感じていた。
「まあ、でも軽音楽部っていうのもあるんだな。それなら俺たちにもできるかも」
「そうだな。今度、覗いてみるか」
二人は本館に向かって歩きながら、今日見た音楽棟のことを話し続けた。あの美しい音色、真剣に練習する生徒たち、そして軽音楽部という新たな選択肢。
翔太の心の中では、音楽への憧れがさらに大きくなっていた。でも同時に、自分にはとても手の届かない世界のようにも思えた。
「俺なんかが音楽をやっても、大丈夫かな……」
「何言ってるんだよ」
太一が翔太の肩を叩いた。
「やってみなければわからないじゃないか。俺も付き合ってやるよ」
「太一……」
「だって、面白そうじゃん。楽器とか触ったことないから、興味あるんだよね」
太一の明るさに、翔太の不安も少し和らいだ。
夕日が校舎を染める中、二人の友情と音楽への小さな憧れが、静かに育まれていた。
明日からまた新しい一日が始まる。そして、きっと新しい出会いが待っている。
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