青春メロディック・ライフ 第1巻
Novaria
プロローグ「春の調べ」
桜が舞い散る四月の朝。私立桜丘高等学校の赤レンガの校舎は、淡いピンクの花びらに包まれて、まるで夢の中の風景のようだった。
朝比奈翔太は、校門をくぐりながら深呼吸した。制服のネクタイがまだ慣れなくて、少しぎこちない。でも、胸の奥で何かがわくわくと躍っている。
「ついに高校生か……」
中学まで野球一筋だった翔太にとって、この春は新しい自分を見つけるチャンスだった。勉強も、部活も、もしかしたら恋愛も。すべてが新鮮で、すべてが可能性に満ちて見える。
校舎に響く新入生たちの声は明るく弾んでいる。翔太も自然と笑顔になった。きっと今日から始まる高校生活が、きっと素晴らしいものになるはずだ。
一方、同じ校門をくぐる一人の少女がいた。星野美月。腰まで届く艶やかな黒髪、透明感のある白い肌。その美しさに振り返る新入生も多い。
しかし、美月の表情には翔太のような明るさはなかった。
「また一年が始まるのね……」
美月の心は複雑だった。音楽科に進学した以上、家族の期待は重い。完璧な演奏、完璧な成績、完璧な音楽家への道筋。すべてが決まっていて、すべてが義務のように感じられる。
音楽は好きだ。ピアノを弾いている時間は確かに幸せだった。でも、それがいつの間にか重荷になっている。周りの人たちが求める「完璧な星野美月」を演じ続けることに疲れていた。
体育館に向かう廊下を歩きながら、美月は小さくため息をついた。今年も変わらない日々が始まる。音楽漬けの毎日が。
入学式の準備で慌ただしく行き交う先輩たちの中で、美月だけが静かに立ち止まっていた。春の暖かい陽射しが差し込む窓辺で、彼女の影は長く伸びている。
「今年こそは……何か変わればいいのに」
美月の心の奥で、小さな願いが芽生えていた。それは彼女自身も気づいていない、音楽への純粋な憧れを取り戻したいという切ない想いだった。
体育館では、新入生たちの緊張と期待が入り混じった空気が流れている。翔太は親友の早川太一と並んで座り、校長先生の挨拶を聞いている。太一の明るい声が隣で響く。
「おい翔太、どの部活にする予定だ? 野球部じゃないんだろう?」
「うん、何か新しいことを始めたいんだ。まだ決めてないけど」
「そっか。俺も何か面白そうなの探してみるよ」
翔太の視線は、ふと音楽科の新入生の列に向いた。そこに座る美月の横顔が、なぜか気になった。同じ新入生なのに、どこか大人びて見える。そして、少し寂しそうに見えた。
校長先生の祝辞が続く中、翔太の心は別のことを考えていた。野球をやめて何をしようか。これまでとは違う自分になりたい。そんな漠然とした想いが胸の中で渦巻いている。
美月は行儀良く話を聞いているように見えたが、実際は上の空だった。今年もまた同じような一年になるのだろうか。音楽科の優等生として、みんなの期待に応え続ける一年が。
入学式が終わり、新入生たちは各教室に向かう。翔太は普通科1年B組、美月は音楽科1年A組。校舎の棟も違えば、世界も違う。
廊下を歩きながら、翔太は改めて学校の大きさに驚いていた。特に音楽棟は立派で、窓からは楽器の音が微かに聞こえてくる。
「すごいな、さすが音楽科で有名な学校だ」
太一も同じように音楽棟を見上げている。
「なんか別世界みたいだよな。俺たちとは住む世界が違うって感じ」
「でも、同じ学校の生徒だからな。いつか関わることもあるかもしれない」
翔太がそう言った時、音楽棟の窓から美しいピアノの音色が流れてきた。ショパンの「別れの曲」だった。その音色は透明で、聞く者の心を静かに揺さぶる。
翔太は立ち止まって、その音楽に耳を傾けた。心の奥で何かが響く。これまで感じたことのない、不思議な感動だった。
「おい翔太、どうした?」
「いや……今のピアノ、すごく綺麗だったな」
「そうか? よくわからないけど」
太一には理解できない感動だったが、翔太の心には確実に何かが植えられた。音楽への憧れの種が。
その音楽棟の練習室では、美月が一人でピアノを弾いていた。入学式の後、なんとなく足が向いてしまったのだ。いつものように完璧な演奏だったが、どこか物足りなさを感じている。
演奏を終えた美月は、窓の外を見つめた。中庭では新入生たちが楽しそうに談笑している。自分もあんな風に無邪気に笑えたらいいのに、と思う。
音楽は好きだ。でも、いつからか「好き」という気持ちよりも「やらなければならない」という義務感の方が強くなってしまった。
「私の音楽って、本当に心に響いているのかな……」
美月の呟きは、静かな練習室に消えていく。
夕方、翔太は帰り道で再び音楽棟の前を通った。もう楽器の音は聞こえない。でも、昼間聞いたピアノの音色が頭から離れなかった。
家に帰ると、妹の愛が出迎えてくれた。
「お兄ちゃん、高校はどうだった?」
「うん、なかなか面白そうだよ。音楽科っていうのがあってさ、すごく上手な人たちがいるんだ」
「へー、音楽科かあ。お兄ちゃんも音楽やるの?」
「どうだろうな……でも、ちょっと興味が出てきた」
翔太自身、この変化に驚いていた。これまで音楽なんて特に関心もなかったのに。
一方、美月の家では家族揃って夕食を取っていた。父の雄一郎、母の麗子、大学生の兄・颯太。みんな音楽に携わる人たちだ。
「美月、今日から高校生ね。気持ちはどう?」
母の麗子が優しく問いかける。
「はい、頑張ります」
美月の返事は優等生らしく模範的だった。でも、心の中では複雑な想いが渦巻いている。
「今年は特に大切な一年だからね」
父の雄一郎の言葉には重みがある。
「音楽科での成績はもちろん、将来の進路のことも考えていかないと」
「はい、分かっています」
美月は頷いたが、本当に自分が望む道なのか、確信が持てないでいた。
夜、二人はそれぞれ自分の部屋で明日のことを考えていた。
翔太は机に向かいながら、昼間聞いたピアノの音色を思い出していた。あの美しい音を奏でられる人は、きっと特別な才能を持っているに違いない。自分には無縁の世界だと思いながらも、憧れの気持ちは消えなかった。
美月は楽譜を前にしていたが、なかなか集中できなかった。完璧な演奏をするための技術は身についている。でも、それだけで本当にいいのだろうか。音楽の本当の喜びを、いつの間にか忘れてしまったような気がする。
窓の外では、桜の花びらが夜風に舞っている。
二人の青春が、静かに動き始めていた。まだ交わることのない二つの想いが、やがて美しいハーモニーを奏でる日が来ることを、この時はまだ誰も知らない。
音楽という魔法が、二人の運命を結びつけようとしている。
桜散る季節から始まる、青春という名の物語。その第一章が、今、幕を開けようとしていた。
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