第14話 トイレ危機管理
五時間目の数学の授業中、桜井月美はそわそわと落ち着かない状態だった。
(まずい……我慢できない)
ここ数日の女装生活で、様々な困難に直面してきたが、今この瞬間、最も深刻な問題が浮上していた。
トイレ問題だった。
ここは男子校。女子トイレはない。
でも、男子トイレに入るわけにもいかない。今の格好で男子トイレに入れば、間違いなく騒動になってしまう。
(どうしよう……)
月美は必死に我慢しながら、職員室の方角を見つめた。職員用トイレ。それが唯一の選択肢だった。
授業終了のチャイムと同時に、月美は素早く立ち上がった。
「ちょっと用事が……失礼しますね」
田島に軽く手を振ると、人目を避けながら廊下を歩き始めた。職員室近くまで来ると、キョロキョロと周囲を確認する。
(誰もいない……今のうちに)
心臓がバクバクと音を立てる中、月美は職員用トイレのドアに手をかけた。
中でも気は抜けない。足音や声に神経を集中させながら、急いで用を済ませる。
(誰か来たらどうしよう……)
外からの気配に耳を澄ませ、ドアノブが回る音がしないかと気を張り続ける。これまでの人生で、トイレでこんなに緊張したことはなかった。
(一番の難関がトイレとか……考えもしなかった)
何事もなく用を済ませて外に出ると、どっと疲れが押し寄せてきた。たかがトイレ一つで、こんなにも神経をすり減らすとは思わなかった。
◆
昼休み、生徒会室で橘秀一は深刻な表情を浮かべていた。
「桜井君、トイレ問題は最重要課題です」
美月は疲れた様子で椅子に座り込んだ。
「まさかトイレでこんなに困るとは思わなかった……」
「一番バレやすいポイントでもあります。油断は禁物です」
秀一はファイルを取り出した。表紙には「緊急時トイレ使用マニュアルVer.1」と書かれている。
「マニュアル作ったのか……」
美月は呆れたような、感心したような複雑な気持ちになった。
(そんなことまで管理されるのか……)
「実は、理事長判断で、緊急で女子トイレの施工を開始してます」
「あ、あの工事って女子トイレだったんだ」
そういえば唐突に学校の片隅で工事が始まったのでなんでだろうと思っていたのだけど、女子トイレだったらしい。俺のための。
「男子校なので元々存在しなかったんです。転校生受け入れ時に軽く話題になりましたが、実際に桜井くんの生活の様子を見て、緊急性が高まりました」
「正直もっと早く気づいてほしかったよ」
美月はようやく状況を理解した。当然といえば当然だが、男子校に女子トイレが存在しないのは自明の理だった。
「工事は急ピッチで進めていますが……」
「いつ頃完成するんだ?」
「最短でも来月末の予定です」
「そんなに先か……」
美月は天を仰いだ。あと一ヶ月以上先だとすると、美月の女装トライアル期間も終わってしまう。まあ一ヶ月後に終了するかどうかの約束は聞いたことはないが。
「工事完成まで、使用可能場所を整理しました」
秀一がマニュアルを開く。
職員用トイレ:最も安全だが教室から遠い
保健室のトイレ:近いが保健の先生がいる時限定
理科準備室のトイレ:非常時のみ使用可
「工事完成まで、こんなに制限があるのか……」
「事前に相談してください。タイミングを調整します」
「トイレまで報告するのか……」
「安全のためです」
(プライバシーも何もあったもんじゃない)
美月は深いため息をついた。人間として最も基本的な生理現象さえ、自由にできないとは。
◆
翌日の2年A組教室。月美は朝から水分摂取を極力控えていた。
(のどが渇いても我慢……)
特に午後の連続授業は地獄だった。クラスメートたちが当たり前のようにお茶を飲んでいるのを、羨ましそうに眺める。
四時間目が終わる頃には、脱水気味で頭がボーっとしてきた。
「月美ちゃん、顔色悪いよ?」
田島が心配そうに声をかけてくる。
「あ、ちょっと疲れてるだけです」
(本当は水分不足だけど言えない)
「大丈夫?保健室行く?」
「だ、大丈夫です……」
山田も心配そうに見つめてくる。クラスメートたちの優しさが、逆に罪悪感を増幅させた。
(心配かけて申し訳ない)
休み時間になると、月美は慎重に計算しながら少しずつ水分補給した。尿意コントロールをしながら、必要最小限の水分を摂取する。
(なんで俺は動画配信者のような生活を強要されているのだろう)
そんな自嘲気味な思いを抱きながらも、月美は着実に女装生活のコツを掴み始めていた。
◆
同日の五時間目。ついに限界が来た。午後の暑い教室で、頭がフラフラしてくる。水分制限の影響で、軽い脱水症状が現れ始めていた。
(もう限界だ……)
授業中で簡単にトイレに行ける状況ではないが、もう我慢できない。月美は意を決して手を挙げた。
「先生、体調が……」
「大丈夫か?保健室に行くか?」
「少し……お手洗いに……」
先生は心配そうに頷いた。
「無理するなよ」
月美は教室を出ると、急いで職員用トイレに向かった。もう余裕はなかった。
用を済ませてドアを開けた瞬間、廊下に人影が見えた。
桐原先生だった。
「あれ?吉野さん、こんなところで……」
月美の心臓が止まりそうになった。とっさに出た言葉は、
「あ、あの……えっと……」
だった。共犯者とはいえ、ここは渡り廊下。誰が聞いてるともわからない。
桐原先生は一瞬困ったような表情を見せたが、すぐに理解したような顔になった。
「職員トイレ空いてたから早く行ってきな」
「はい、ありがとうございます」
心臓がバクバクで、まともに歩けない状態だった。
その時、桐原先生が小声で言った。
「気をつけろよ」
月美も小声で答えた。
「すみません……」
(先生も大変だな……)
改めて協力者の存在の大切さを実感した。一人では絶対に乗り越えられない困難だった。
放課後の保健室。秀一は今日のヒヤリハット体験を受けて、更なる管理体制の強化を提案していた。
「今日の件を受けて、より厳格な管理が必要です」
「もっと厳しくなるのか……」
美月は既に疲れ切っていた。
「安全第一です」
(ますます制限が増える)
秀一が新しい書類を取り出す。
「トイレタイムテーブルを作成しました」
時間割に合わせた使用可能時間、休み時間の最適化、緊急時の連絡方法が細かく記載されている。
「ここまでしないといけないのか」
「桐原先生にもご協力いただいていますが、できる限りリスクを減らしたいのです」
美月は表を眺めながら思った。
(トイレ一つでこんなに大変)
(普通のことができない辛さ)
(でも、学校のためだ)
「必ず慣れます。今は大変でしょうが……」
秀一の言葉に、美月は小さく頷いた。
◆
学校からの帰り道。月美は一人で今日のことを振り返っていた。
(桐原先生に迷惑をかけた)
(水分制限で体調を崩しそうになった)
(トイレ問題は想像以上に深刻だ)
様々な反省点が頭に浮かぶ。でも同時に、前進している実感もあった。
(それでも、なんとかなってる)
(みんなが協力してくれている)
(少しずつでも慣れてきている)
最初は途方もなく思えた女装生活も、一歩ずつ前進している。困難は山積みだが、一人ではない。
(明日はもっと気をつけよう)
(水分摂取のタイミングを工夫しよう)
(トイレタイムテーブルを守ろう)
月美は決意を新たに、家路についた。
どんなに困難でも、学校を救うという使命は変わらない。そのためなら、この程度の不便は乗り越えてみせる。
夕日が校舎を照らす中、月美の影は長く伸びていた。女装という仮面の下で、確実に成長を続ける少年の姿がそこにあった。
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