第12話 朝の準備地獄

A.M. 4:00──


美月の朝は早い。


ジリリリリリ……


目覚まし時計の無慈悲な音が、美月の耳に突き刺さり、重いまぶたをこじ開けて、美月は鏡の前に立った。まだ寝ぼけた顔が映っている。髪はボサボサ、目は腫れぼったい。


月美デビューから3日目の朝を迎えていた。まだまだこの生活には慣れそうにない。


「今日もメイク地獄の始まりだ」


美桜の部屋をノックすると、すでに準備万端の姉が現れた。


「美月、今日は25分で仕上げるわよ」


「昨日は30分だったのに……」


「時短は女子の基本スキルよ。さ、座って」


「俺は女子じゃねーよ」


化粧品で埋まった机の前に座らされる美月。鏡に映る自分の顔を見ながら、ため息をつく。


(もはやタイムアタックだな)


美桜の手際の良さとは対照的に、美月の動きはまだぎこちない。


「ベースメイク、もっと薄く」

「アイシャドウ、そっち側ももう少し」

「リップ、はみ出してる」


指示が次々と飛んでくる。美月は必死についていこうとするが……


なんてやってみると可愛い顔が出来上がっていた。


(今日は昨日より可愛くなった気がする。って、俺大丈夫か?)




◆ A.M. 7:00


7時になると、今度は制服への着替えだ。


ブラジャーを装着し、胸の膨らみを作る。最初は違和感しかなかったが、もう慣れてしまった。


(慣れって怖い……時間はまだまだかかるが)


スカートを履き、髪にリボンをつける。一つ一つの動作に時間がかかってしまう。


「美月、急いで!もう7時20分よ」


美桜の声が響く。家を出る時間は7時30分。もう時間がない。


「分かってるよ!」


最後に鏡の前で全身チェック。


(今日はちゃんと女の子に見えてるか……?)


美桜が後ろから覗き込む。


「まあまあね。60点」


「厳しいな……」


美月は肩を落とした。




◆ A.M. 7:30


家を出たら美月は月美になる。


通学路でも不安は続く。


(近所の人に見られる恐怖)


(知り合いとバッタリ遭遇したらどうしよう)


(バレたら学校にも迷惑が……)


委員長と相談して決めた、人と遭遇しにくいであろう安全ルートを歩く。月美の通学路より、遠回りになるうえ、スカートで気をつけて歩かないといけないため、通学時間が20分も長くなってしまう。


でも、人目につかない道を選ぶしかない。


電車に乗る時も迷った。女性車両に乗るべきか、それとも普通車両か。


結局、普通車両を選択した。座席に座る時も注意が必要だ。


(膝を閉じて、上品に……)


美桜から教わった座り方を思い出しながら、慎重に腰を下ろす。




◆ A.M. 8:10


音光学園の校門が見えてきた。


深呼吸をして、校門をくぐる。他の生徒たちの視線を感じる。


(今日も一日、月美として過ごすんだ)


2年A組の教室に入ると、クラスメートたちが声をかけてくれる。


「おはよう、月美ちゃん」


「おはようございます」


声のトーンを意識しながら答える。自然な女性らしい話し方を心がけているが、まだまだぎこちない。


(俺、ちゃんと女子として認められてる……?)


委員長が遠くから様子を確認している。アイコンタクトで「大丈夫?」と聞いてくる。月美は小さくうなずいた。


(今日も一日が始まった……)




◆A.M. 10:20


授業中も気が抜けない。


座り方一つとっても注意が必要だ。膝を閉じて座り、スカートの裾を気にする。


(気を抜くとすぐボロが出そう……)


国語の授業で先生に指された時は、声のトーンに特に気をつけた。質問に答える時の声の高さ、自然な女性らしい話し方。


(まだまだ慣れない……)


手の動きも意識しなければならない。ペンの持ち方、ノートを取る仕草、髪を触る動作。すべてを女性らしく。


(女の子らしく、女の子らしく……)


頭の中で呪文のように繰り返す。




◆P.M. 0: 20


昼休み前、月美は午前中を振り返っていた。


今のところ大きな失敗はなし。でも常に緊張状態でいることの疲労は相当なものだった。


(こんなに神経を使うなんて……)


クラスメートたちが話しかけてくれる回数も増えている。


「月美ちゃんって面白いね」


田島がそう言ってくれた。


(面白いって……何が面白いんだ?どういう意味だ?俺の顔か?)


好意的なのか、それとも何か違和感を感じているのか。月美には判断がつかなかった。


昼休みの過ごし方、午後の授業への対応。


(まだまだ一日は長い……)


美月は時計を見ながら、そう思った。




◆ P.M. 3:40


放課後になった。月美は疲労困憊だった。


一日中、常に緊張状態でいることの疲れは想像以上だった。でも、今日も大きな失敗はなく過ごせた。


(やっと帰れる……)


帰り支度をしながら、月美は今日一日を振り返る。


少しずつクラスメートとの距離が縮まっているのも事実だった。友達関係が発展していく一方で、嘘への罪悪感も日に日に増大していく。


「月美ちゃん、お疲れさま」


田島が声をかけてくれた。


「はい、お疲れさまでした」


自然に返事ができるようになってきている自分がいる。


帰りの電車でも、朝と同じように配慮しながら座席に座る。スカートを押さえ、膝を閉じて。




◆ P.M. 4:30


家に帰ると、月美は美月に戻る。


玄関でどっと疲れが出た。


「あー、疲れた……」


美桜が顔を出す。


「お疲れさま。今日はどうだった?」


「なんとか乗り切った。でも毎日こんなに神経を使うなんて……」


「慣れよ、慣れ。女子は毎日そうやって生きてるのよ」


「いや、俺のこれは女子のそれとは明らかにちげーよ!」


明日もまた4時起き。この生活が続くのかと思うと、気が遠くなりそうだった。


(でも、学校のためだ)

(みんなのためだ)

(俺が頑張らないと)


美月は心の中でそう呟いて、明日への準備を始めた。

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