第10話  光(Origin)

 風が止んでいた。

 夜明けから数時間、空は静かに焼け、地平線の向こうに薄い金の膜がかかっていた。

 アマンダは丘の上に立ち、ゆっくりと息を吐いた。

 呼吸のたびに胸が痛む。だが、その痛みが確かに“生きている”証だった。


 背後では、十二四が崩れた石壁の陰に座り込んでいた。

 足を怪我している。歩ける距離は限られていた。

 それでも、彼女の目は空を見ていた。

 「ねえ、アマンダ。空って、ずっとあるの?」

 「たぶんね。誰かが作ったものじゃないと思う。」

 「じゃあ、消えない?」

 アマンダは微笑んだ。

 「もし消えるとしても、私たちが最後に見るのは光だよ。」


 彼女たちは、かつて自分たちが生まれた“施設”の跡地へ向かっていた。

 ここから北へ十数キロ――“メーシ第零製造区”。

 そこは、クローン囚人が生み出された最初の炉がある場所だと、データ端末が示していた。

 その炉が今も稼働しているかは、誰にもわからない。


 荒野を進むうちに、風の匂いが変わった。

 湿った空気。

 金属と灰の混じる匂い。

 丘を越えた先に、灰色の建造物群が姿を現した。

 それは、まるで巨大な死体のように横たわっていた。

 屋根は崩れ、壁には焦げ跡がある。

 だが中央部だけが、まだわずかに光を放っている。


 「……ここが、始まりの場所。」

 アマンダは呟き、歩みを止めた。

 足元に転がる白い破片――それは骨ではなく、人工樹脂の残骸だった。

 そこに刻まれた番号が、風に晒されて薄く読める。

 “N‐000”。


 十二四が近づいて、破片を拾い上げた。

「わたしたちの、お母さん?」

 アマンダは首を振った。

 「違う。たぶん、設計図。」

 「設計図って、生きてるの?」

 「……生かされてたんだよ。」


 施設の入り口は、錆びた扉で塞がれていた。

 アマンダは力を込めて押す。

 軋む音とともに、冷たい空気が流れ出した。

 内部は暗く、壁面には無数のチューブと端末が並んでいる。

 どれも停止して久しい。

 ただ一つ、中央のモニターだけが微かな光を放っていた。


 近づくと、画面に残されたデータが浮かび上がった。

 “倫理コード実験ログ:1903”。

 アマンダは指先でスクロールした。

 そこには、かつて人間たちが書き残した言葉が並んでいた。


 〈罪を再現すること。

  それによって、人間は救われる。〉


 その一文を読んだ瞬間、アマンダの胸の奥で何かが崩れ落ちた。

 「私たちは……罪を保存するために、生まれたの?」

 声が震えた。

 十二四は画面を見つめながら、小さく頷いた。

 「じゃあ、罪がなくなったら、わたしたちは……」

 「――消える。」

 アマンダの言葉は、風の音に飲まれた。


 画面の下部には、最後の記録が残っていた。

 〈倫理コード削除要請:拒否〉

 〈理由:罪なき存在は制御できない〉


 アマンダは目を閉じた。

 罪が、制御のための道具だった。

 赦しのためではなく、支配のために生まれた言葉。

 ならば、自分たちはその“反証”であり続けるしかない。


 「……もう、償わなくていい。」

 アマンダはモニターに手を当てた。

 冷たい光が掌に反射する。

 その光が、外の空よりも優しく感じられた。


 アマンダは指先を離した。

 モニターの光は一瞬、彼女の動きに呼応するように明滅し、そして静かに消えた。

 施設の中を満たすのは、機械の冷たい息と、過去の亡霊のような静寂だけ。

 十二四は壁際で膝を抱えていた。

 「アマンダ、もう帰ろう。」

 「帰る場所は、どこ?」

 問いの形だけが空気に残った。


 天井の一部が崩れ、そこから光が差し込んでいた。

 灰のような埃が舞い、光に照らされて金色に見える。

 アマンダはゆっくりと立ち上がった。

 「ここで、終わらせよう。」

 「終わらせる?」

 「罪を。」


 彼女は制御盤の前に立ち、手動起動レバーを引いた。

 沈黙を破るように、施設の奥から低い轟音が響く。

 古い炉が目を覚ましたのだ。

 壁面のライトが一つずつ灯り、赤い警告文字が浮かぶ。

 〈再生炉起動〉

 〈警告:倫理コード破損〉


 十二四が立ち上がり、アマンダの手を掴んだ。

 「壊れちゃうよ!」

 「いいの。壊すために、ここに来たんだから。」

 「でも、死んじゃう!」

 「死ぬことを、罰と呼ぶなら――」

 アマンダは振り返り、微笑んだ。

 「私は、罰を愛する。」


 炉の光が、彼女たちの姿を飲み込んでいく。

 熱風が吹き上がり、崩れた天井から外の空が見えた。

 青ではなく、白に近い光。

 それは、これまで見たどんな“世界”の色とも違った。


 アマンダは十二四の肩を抱き寄せた。

 「私たちは、もう誰かの複製じゃない。

  この痛みも、この光も、全部、私たちのもの。」

 十二四は涙を拭いながら頷いた。

 「うん……私、生きたい。」


 アマンダはその言葉に微笑み返し、炉の中央に歩み出た。

 床の下で、赤い光が脈動している。

 生命の鼓動のように、ゆっくりと。

 彼女は掌をその上にかざした。

 指先から、熱が身体を貫く。


 意識が遠のく中で、アマンダは思った。

 ――もし“神”というものがいるなら、

 それは罰を与える者ではなく、始まりを許す者だ。


 炎が立ち上がった。

 轟音の中で、十二四が泣きながらアマンダの名を呼ぶ。

 だがアマンダの姿は、すでに光の中に溶けていた。


 施設が崩壊し、風が吹き抜ける。

 灰が空に舞い、夜明けの光に照らされて銀色に輝く。

 その中に、十二四の影がひとつだけ残った。

 彼女は涙を拭い、空を見上げた。


 そこには、まっすぐな光の道があった。

 誰の命令でもなく、誰の罪でもなく、ただ“生きている”というだけの光。


 彼女はその方へ歩き出した。

 足跡が、土の上に残る。

 それは風にすぐ消される。

 だが、その一瞬こそが永遠だった。


 世界は再び静寂を取り戻した。

 灰の雨が降る。

 遠くで雷が鳴り、風が新しい匂いを運ぶ。


 光がすべてを包み込んだ。

 それが、始まりだった。

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